しらふ倶楽部

昭和の漫画(劇画)を遠望する

アトムの子世代 の続き

アトムの子世代といえば、1953年前後の生れ。
1953年生れの有名人といえば、大相撲の世界で、若手のホープ時代に「花のニッパチ組」と呼ばれて注目された力士たちがいて、(ニッパチとは昭和28年生れから)、横綱となった北の海や二代目若乃花などがいた。

芸能人は広くは知らないが、二人の女性が思い当たる。

吉田美奈子。『夢で逢えたら』という人気曲があり、シングル盤で発売すれば大ヒット間違いなしといわれたが、シングル盤の発売は拒否したという。自分の目ざしてきた音楽とは異なる傾向のものが代表曲にされるのは不本意だから、という理由だと聞いた。この世代らしいのではないかと思う。

寿ひづる。1954年の早生れ。宝塚歌劇の男役スターで、当時月組トップスターの大地真央に迫る人気だったらしい。花組トップスターに内定したころ、退団を表明して結婚した(相手は歌舞伎役者の坂東三津五郎)。

「アトムの子」世代とUターン現象

 シラケ世代と世代論(2)

団塊世代に続く1951~55年ごろの生れは、「シラケ世代」の名で呼ばれてきた。
シラケという言葉にマイナス感があるなら、代替案はどうだろう。

ヒット曲というほどではないかもしれないが、1953年生れの山下達郎の曲に『アトムの子』というのがある。「大人になっても、ぼくらはアトムの子供さ」という歌詞で、平和や弱者を助けたり夢を追うことを歌う歌詞である。

アトムとは、手塚治虫の連載漫画としては、1951年の『アトム大使』、1953年からの『鉄腕アトム』の主人公のロボットのことである。1963年にテレビアニメとなり、作者晩年の1980年代にもアニメ化され、昭和の戦後の子供漫画のスターの筆頭であり、「アトムの子」とは、広義には戦後生れのことをいうのかもしれない。

とはいえ狭義の意味では、一少年雑誌の連載漫画ではなく、1963年1月から国産初のテレビアニメとして、ほぼ全国民の知るところとなった「アトム」のことであろう。番組は1966年12月まで続いた。
この1963年は、53年生れが10歳になる年であり、小学3年の3学期になる。10歳になれば「鉄腕アトム」の世界はよく理解できるようになるだろう。1966年の12月は、中学1年で、子供向けアニメからは卒業のころである。

当時は、アトム以外にも多くのテレビアニメが作られ、国産アニメの大ブームとなったのだが、それを支えたのが、この世代ということになる。

この世代のことを「アトムの子世代」と呼ぶのはどうだろう。

山下達郎

山下達郎には『クリスマス・イブ』という大ヒット曲があり、作られたのは1083年だが、JR東海のCMソングになってヒットしたのはバブル期の1988年である。CMにはいくつかのパターンがあったと思うが、旅行ではなく帰省のイメージの映像が多かったような気がする。季語でいえば年末の歌であるせいか。

アトムの子世代にとっては、帰省とは、1974-6年ごろのUターン現象のイメージと重なる。Uターン現象とは、この世代にとって大学卒業の前後のころの現象である。
Wikipediaの「Uターン現象」を見ると、
「1975年から1985年頃まで、地方圏においては、高度成長期を通じて流出が続いた人口が再び増加する現象がみられた」などと簡単な説明がある。
Uターン現象とは、東京一極集中ではなく、若者が故郷へ帰って就職することであり、一時的なものではあったが、当時の注目された現象だった。団塊の世代の政治の季節は終ったが、公害問題や自然環境への危機意識は続いていて、高度成長の終りを予感させる時代でもあり、東京を離れようとする若者が、実際増えた時期があったのである。
若者とは、どの時代も成功を夢見て都会へ出たがるものだが、そうでない傾向の時代があったことは、再認識する必要があるのではないか。それがこの世代を理解するための鍵の一つにはなるだろう。より詳細な研究が待ち望まれる。
1975年の太田裕美のヒット曲『木綿のハンカチーフ』にも、Uターン現象の時代背景があったといえる。

シラケ世代と世代論(1)

世代論について書き始めて、中断してしまったのだが、再開しなければならない。

とりあえず、『世代論の教科書』(阪本節朗著)という本をぱらぱらめくってみた。
次のように分類されていた。
 団塊世代   47-51 (5年)
 ポパイJJ世代 52-60 (9年) 
 新人類世代  61-65 (5年)
 バブル世代  66-70 (5年) (以下略)

「ポパイJJ世代」という見慣れぬ言葉が使われている。こうした特定の雑誌名=商品名を冠した新造語が、今さら定着してゆくとは考えにくい。ましてポパイは1976年創刊、1953年生れが大学を卒業した後にできた雑誌である。JJも月刊誌となって定着したのはポパイより更に遅い。
この世代が前後の世代と比べて9年間という長期間であることも、大雑把な感を否めない。また、この9年間の前半と後半では、ポパイなどのカタログ雑誌(消費志向雑誌)の存在によって、大きな断層があることが想定される。
この9年のうちの前半は、通常は「シラケ世代」と呼ばれることが多かった。ここでは、それを採用する。後半については、とりあえず、「ポストしらけ世代」とでも呼んでおこう。

この本のポパイ世代の章の見出しに「ユーミンからサザンへ、ライフスタイルは音楽とともに」とあるが、この言葉が当てはまる「ユーミン」とは松任谷由実のことであって、荒井由実の時代のほうが良かったというのがシラケ世代の人たちに多いのである。

ポパイとはカタログ雑誌と呼ばれたジャンルの雑誌のことで、当時は面白い面もあると思ったが、われわれがカタログという形式でまとめて見てみたいのは、過去の若者文化やその歴史であって、現時点で大企業が買わせたいものだけを並べるのは、シラケ世代には、売り側の魂胆が見え見えだった。それでも、良いものは良いではないかと割り切る人もいるにはいたろう。
ポストしらけ世代以後の雑誌は、出版社ではなく広告会社が作るものに変質した。雑誌の内容に合わせて掲載広告を広告会社に依頼するのではなく、重要なのは広告なのだから、企画の段階から広告会社に任せたほうが、ことが早いということになり、若者の趣味の一分野だけを扱う雑誌が主流となって、総合雑誌を駆逐する時代になっていった。

この本の団塊の章に「じつは団塊世代の女性は、専業主婦率がいちばん高くなっています」(55p)と書かれてあるが、私が以前に見たデータでは、専業主婦率のピークは昭和28年(1953)生れの女性である。同書は間違いなのかという疑問もでるが、おそらく昭和28年は9年間の1年として括られ、その9年間の平均よりも団塊5年間の平均のほうが少し高かったということかもしれない。9年間の平均と5年間の平均とを比較することが良いのかどうかである。

シラケ世代である1953年生れの女性は、なぜ専業主婦の率が高いのか。
要するに、結婚相手が3歳くらい上の、団塊後半世代が多いからである。団塊世代は人口が多く、4~5人の兄弟は当たり前で、農家の二男以下は新規の非農業従事者ということになる。農家に嫁げば主婦は農業従事者であって専業主婦ではないが、非農家の場合に専業主婦になったということだろう。農家だけでなく小規模自営業も同様である。出生人口の推移と産業構造の変化が原因といえる。そして、以後は「共働き」という形が増えてゆく。

53年以前は、農業人口が多いので専業主婦が少ない。以後は共働きが増えて専業主婦が少ない、ということだろう。

こうした変化の節目の世代なので、これも9年を1括りにできない所以である。ポストしらけ世代からは、年金の支給額がマイナスに転じるだろうという試算もあり、それも時代の区切を表すのかもしれない。

この本の9年世代(ポパイ世代)の解説に「女の子はミニスカートかジーンズで大学に行って」と書かれるのは、事実ではない。1953年生れが大学に入学した1972年には、ミニスカートの女子大生は激減していた。1~2年のうちに一斉にロングスカートに変わってしまって、活動的というより女性らしいファッションになった。当時はファッションセンスはまだイマイチで、次のポストしらけ世代(JJ世代?)から、普通の女子でもセンスが良く見えるようになったのは、前述の雑誌などの影響が大きいのだろう。また当時のジーンズは男女兼用のものばかりで、ナチュラル志向で細身の女性でないと似合わなかった。

次に昭和28年生れを代表して、山下達郎の『アトムの子』という歌について触れる。

happa

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菊地信義の『装幀の本』

菊地信義氏は本の装幀でおなじみの人だが、
『装幀の本』(リブロポート1989年4月)という本がある。
その年は平成元年なので、内容は昭和時代の(菊地氏にとっては初期の)本の装幀の仕事のことになる。
いくつか気になる本が載っていた。漫画家の絵をデザインに採用した装幀である。同書からスキャナしようかと思ったが、ネットから借りた画像にした。

★印の3冊を次に表示。1つめは、鈴木翁二『少年手帖』(1982)にも収録された絵。
鈴木翁二の絵
 ★平出隆詩集   思潮社(1977)
 ★途方にくれて 立松和平 集英社(1978)
 熊猫荘点景 金子兜太 冬樹社(1981)〔猫の絵〕
安部慎一の絵
 ★愛より速く 斎藤綾子 JICC出版局(1981)
佐々木マキの絵
 羊男のクリスマス 村上春樹 講談社(1985)

平出隆詩集 鈴木翁二 途方にくれて 立松和平 鈴木翁二 愛より速く 斎藤綾子 安部慎一

シラケ世代と自律神経失調症

 中学高校生時代というのは、何かスポーツなどで少しは体を動かしたほうが良いのだろうということを、自身の反省をこめて、いつか子孫などに言い残そうと思っていた私の若い日があった。
 学生のころは体調が悪いと何事も欠席が多くなり、おそらく「つきあいの悪い人」ということになっていて、研究分野でも助けられたり助けたりが少なくなっていたように思う。
 体が弱い人でも立派な業績を残す人があるが、短命な人が多いのではないか。たとえ命を縮めてもという判断なのだろうか。そうした判断以前に、私の場合は、疲れることは今日はやめにしようということになっていた。
 平均並みの体力があったほうが、文系の仕事にもプラスになるだろうと、思っていたことがあったのである。

 しかし最近の私については、体が弱いというよりも、自律神経に問題ありと思うようになった。子ども時代からの車酔いをはじめ、すぐに息苦しくなって運動が続けられなかったとか、思い当たることはいくらでもある。
 60歳を過ぎると早死にをする人が目につくようになるが、あの人は体が弱かったから……などといわれると、自分は自律神経が先にエンストを起こすので、無理をせずにここまで生きてこられたに違いないとも思うようになった。プラス面もあるのである。
 人によっては体の弱さを忘れてしまうほど仕事に集中してしまって体を壊し、早死にをすることもあるのではないか。そのような無理を今までしなかったのは、何事も明日やればよいと考えたからで、その「明日」がある年齢まではじゅうぶんにあったからであるが、残り時間が少なくなった今は、無理をしてしまいそうな気もする。

 以上は、まったく個人的な問題のつもりで、書いた。

 ところが、
 『自律神経失調症の謎』(鈴木修二、有斐閣新書 1982)
という本を見ていたら、次の部分に目が止まった。

「理屈を言わない人は救われる率が高いんですよ。もっとも、自律神経失調症の人は、よく言えば醒めている。悪く言えば疑い深いから、お祈りさんではまずだめですね。」

「醒めている」「疑い深い」というのは、われらシラケ世代の特徴でもあった。それは、自律神経失調症の人の特徴でもあるという。
 前述した「助けられたり助けたりが少ない」というのは、派閥を作らないという意味であく、相互協力で上昇を志向する意志がないという意味でもあって、そうした傾向は自律神経失調症と関連がありそうだと書いたつもりなのだが、この本によってそれは裏づけられていることになる。
 ただしそれらは、シラケ世代全般の特徴でもあるとすると、どうなるのか。
 シラケ世代に、自律神経失調症が多い可能性もあるのだが、両者の関係について、考えていきたいと思っている。

「『ガロ』と北海道のマンガ家たち展」記念誌

「『ガロ』と北海道のマンガ家たち展」記念誌
(市立)小樽文学舘 2016年
ガロの元「編集長長井勝一没後20年」での企画があり、その記念のパンフレットを最近借りたので読んでみた。

類似の特集雑誌などを読んではいないが、本書は小冊子ながら、充実した内容になっていると思う。武田巧太郎、高野慎三山中潤、各当事者たちの文は、単なる回想にとどまらず、この分野の歴史の重要なひとコマをよく描いている。微妙な意見の食違いや、本人の反省の弁なども書かれ、2016年当時ガロについて一般誌ではとりあげられることもあまりなかったとすれば、この一冊は貴重なものであろう。(内容については略)

『ガロ』と北海道のマンガ家たち展

作家代表として鈴木翁二氏の10代のころの回想記もある。父や自死した高校教師などが氏にとって重要な人物であるように読める。1少年漫画、2貸本漫画、3ガロ、の順で、小学生時代から上京のころなどのことが書かれる。
1 少年漫画時代は、少年雑誌を真似たものを作ったとか(私もやりました)。
2 貸本劇画については、「粗雑な絵」が特徴の一つといい、作者と読者の距離感の近さ、少年の自分でも書けそうな近さのことをあげている。
3『ガロ』については、最初に同誌を与えてくれたのが父親だという話は、独特だろう。

貸本屋は、昭和30年代の全盛期には全国で数万軒もあったらしく、中には1坪半くらいの小さい店もあった。徒歩で5分か10分くらいの範囲に1000軒の所帯がある場所なら、成り立ったろう。
そうでない場合は、農家や自営業の子は、学校から帰っても家の仕事の手伝いがあるのが普通で、けっこう忙しい。我が家でも風呂焚きなどを子どもが担当したが、ある時期に石油で風呂をわかすようになってから、子どもの仕事がなくなった。貸本屋のあったところは、銭湯があったところでもあるので、そういうところでは、子どもの風呂焚きの仕事はなかったことだろう。

『最後の空襲 熊谷』、反戦とは何か


終戦の日の前夜、8月14日に、埼玉県熊谷市の市街地が米軍の空襲を受けて、甚大な被害をこうむった熊谷空襲について、70数年を経て可能な限りの人々の記憶を残そうとした書である。

『最後の空襲熊谷 8月14・15日 戦禍の記憶と継承』熊谷空襲を忘れない市民の会、社会評論社2020

本を開いてすぐ、当日の被災状況を示す地図はないかと探すと、巻末の資料編にあった。
地図を見ると、中山道を中心に市街のほとんどは焼け野原となったようだが、駅や鉄道施設に被害はない。ほかに熊谷寺から東の役所の多いエリアも空襲を受けていない。
本文によれば、終戦前夜の急な空襲の理由について、4つの理由を想定しているが、そのうちの1つ、戦後の米軍支配に便利なように(鉄道などを残す)というのが1番であろう。3月の東京大空襲の被災を免れたエリアについても同様のコメントをきくことがある。
東洋人に対しては無差別的な空襲も問題視しない白人が多くいたというのは、本書のいくつかの理由項目には入ってなかったと思う。

熊谷空襲 被災地

 座談会では、若干意味不明な発言が気になるところもある。
「変らないでしょう。今だってそんなに変らない。当時は神様でしたから。象徴天皇はGHQが作ったものですよね。日本の歴史にはないですね。」
 変らないといいながら、日本の歴史に全くなかったものが、初めてGHQによって作られたという。このへんは、右派の発言と奇妙な一致を見てしまうので要注意だ。(普通は明治から戦前期の西洋を真似た「軍人皇族」の時代だけが異常な時代とみる歴史家が多い)
「奇妙な一致」とは、江戸時代を非人道的な暗黒社会だったという歴史の歪曲についても、明治の末ごろから、右派と左派で奇妙な一致を見ていた(佐藤常雄『貧農史観を見直す』)。そこから一気に軍国化が進んだ。その過程では、反天皇制ばかり主張して反戦のハの字も言わなかった者たちの問題も、小さくはなかったはずだ。(昭和の戦前、戦中における)反戦の否定についても奇妙な一致があったとしかいいようがない。

 大事なのは、反戦ということ。

手塚治虫の『グランドール』

 『グランドール』とは、手塚治虫のSF漫画(異星人の侵略物)である(1968年「少年ブック」連載)。
 侵略者は、グランドールというあやつり人形を、人間の姿に変えて人間たちのなかに紛れ込ませ、人間全体を操ろうとする。
 哲男少年が助けた少女は、グランドールだった。少年はふだんから意志の弱いような性格だったので、自分はグランドールではないかと信じこまされようとする恐怖。少年と少女は、交流をもつうちに、少年は自分の意志をしっかり持つようになり、少女はグランドールであることをやめたいと思うようになる。
 結末は、少年はグランドールではなく、少女は、グランドールであるどころか、侵略者そのものであって、少年を実験台に人間までをも操ろうと試したのだという。少年への情に迷いはあっても、侵略者は負けを認めて撤退する。。
 少女との出会いが少年を成長させたという意味で、青春物という面もある。いつか次の侵略者が派遣されるだろうといっても、何もなければ、すべての事件は少年の日に見た一瞬の夢のようでもあり、幻のようでもある。
 当時人気がいまいちだったというのは、すべては友だちにだまされたもので終るという点にもあるだろう。少年誌でなく青年誌であるなら、二人は男女の関係になるので、実を結ばないこともあり、その意味もやがてわかるだろうと納得させられる。同じ部屋で寝ている場面があるのだから、本来は青年誌向きなのだろう。

 

 以上は旧稿だが、手塚治虫漫画全集の著者あとがきでは、SFとして高度な内容なので一般受けしなかったろうと書かれている。その他の理由としては、あるいは、全ては親友にだまされて終りというのが、少年受けしなかったのではないか。男女でも親友の関係になりうるというのは、大人には理解できなかろうが、少年には納得できるはずである。しかし大事な親友に騙されていたという話は、いただけない。
 14~15歳ごろの子供ともいえないような年齢なら、大人の世界が少し見えるようでもあり、面白く読めるかもしれない。

手塚治虫 グランドール

手塚治虫 グランドール

 

談 100号記念選集

『談 100号記念選集』は、『談』という雑誌が2014年に通巻100号を記念して発行されたアンソロジーである。500ページ超の厚い本。
談 100号記念選集

http://dan21.livedoor.biz/archives/52014417.html

いくつか拾い読みして目についたページは、
「ガストロノマドジー事始め」(石毛直道樺山紘一・対談)。
見なれないカタカナ語だったが、読んでみると、食文化について西洋と日本の比較、日中の比較などから、それぞれの民族の歴史や文明論ほかさまざまに語られ、最後は性の問題にもふみこんでいる。
性については、新しい研究のためにはフィールドワークが重要との認識で一致したが、両対談者とも、そのためには年齢的に時期を失したという、落語のようなオチもついている。

 

石毛 そういう意味では、われわれ日本人は 世界で最も食欲不振の民族なんです。
樺山 そうですね。実質は本当におとなしい 食生活、おとなしい性生活をやっているんだと 思いますね。聞けば日本人はラブホテルで若 いカップルでもシャワーを浴びてからセックス をするという。ヨーロッパ人は違う。やはり 臭いが残っていないと、食欲がわかないという ことですかね。それに対して日本人はものを 食べるのに、洗ってからでないと食べられない。
石毛 その代わりというか、一方で日本人の 性に対するテクノロジーというのは、向こう の連中から言わせたらものすごいものがある。
樺山 こちらテクノロジー、あちらエネルギー という気がしますね。

 

所有欲あるいは愛欲や食欲などで、西洋人のエネルギーにくらべ、たんぱくな日本人は食欲不振のようなものであるらしい。
たしか西洋人のエネルギーは、死後に至るまで他人を拘束しようとし、死者が裁判にかけられる話を別の本で読んだことがある。
自然物への徹底的な加工の欲望も、そうしないと、所有物にならないという認識なのかもしれない。

日本人が魚を生で食べるのは、いつでも自然に返せるようにとか、人間自身が自然に近づけるようにとかいうことなのかどうか。
シャンソンの『愛の讃歌』の歌詞は、映画の字幕で直訳に近いものを見たが、愛のためには反社会的行為も辞さないという激しい内容だった。あちらではそれが普通なのだろう。岩谷時子の日本語訳は、あの時代では女性が熱い愛欲を語るだけで斬新だったと思うが、それだけでは今聞くと平凡に聞こえる。
日本の従来の歌謡は、なんでも思い出にして語るのが多い。

編集長のS氏は、38年前の1984年ころから同誌の編集に携わっているらしい。その年は個人的に私の身辺が急に慌ただしくなった年である。39年ぶりくらいに連絡をとったら、良い贈り物(この本)をいただいた。
(公益財団法人たばこ総合研究センター、水曜社の発行)

 

『少年手帖』発刊40周年

鈴木翁二著『少年手帖』(望遠鏡社版)は、1982年6月30日の発行である。
本の奥付にある雨影知逢という人物が、本ブログの管理人ことわたくしのことであるが、ちょっと出過ぎの感があり恥入るばかりであるので、もし再刊の折りには該当かしょは目立たなくするのが良いと思う。

 

個人的な話になるが、小学生のころから雑誌のようなものを作るのが趣味で、あるときは弟を巻き込み、あるときは同級生たちを集めて作り、あるときは一人に戻り、編集長は自然にわたくしになっていた。高校1年で立ちあげた漫画研究会は翌年に下級生も若干加わった。漫画が多いのは、最初に手本にした少年雑誌に漫画が多かったからであろう。
(学生時代に参加した某会は年長者が多かったので、編集長にはならなかったが、あの会は会誌も出せなかったような気がする)
そんなわけで、子供編集長のまま成長してしまった感があり、人に迷惑をかけたこともあるであろう。
少年手帖 鈴木翁二
少年手帖 鈴木翁二

さて1970年代に、FM雑誌というのが隔週で何種類か発行され、購入者のお目当てはFM放送の2週ぶんの番組表であり、番組表をマークしながら、エアチェック(放送をカセットテープに録音すること)するのが主目的だった。
FM雑誌に臨時増刊号というのがあり、オーディオ機器の特集の内容だが、ある古書店で手にとってみると、B5判サイズの鈴木翁二氏のイラストが何枚も掲載されているものがあった。古雑誌が200円(珈琲1杯分)としても4枚の絵なら1枚50円で高いものとも思えない。あとでいろんな雑誌に少しづつ同様の絵が掲載されていたことも知ることになった。
その雑誌からの4枚の切抜きは、本を作るときに利用され(著者のもとに原画がなかったため)、本の完成後に他の原画を著者に返送するときに、これらの切抜きも一緒に送った。
それからちょうど40年になる。