旅館の女中さんたちや下男のジッさんたちと、青年とのユーモラスなやりとりが、ほほえましく楽しい。
女中頭のお金さんは、建物のしっくい細工について、自慢げに説明する。青年が温泉に入ると、下男のジッさんから、旅館のお嬢さんのマリちゃんが作ったパンフレットがあることを聞く。ジッさんは、東京の大学を出たマリちゃんのことが自慢げである。
夕食になり、女中のトヨちゃんにパンフレットのことを質問してみると、トヨちゃんは急に恥かしそうな態度になるのもユーモラスな場面だが、パンフレットには温泉に入る女性の写真が載っているという。女中さんたちが後ろ姿で写っているらしい。
翌朝、ジッさんに頼むと、1枚だけといってパンフレットを見せてくれた。ジッさんは字が読めないので、青年客に声を出して読んでもらいたくて見せてくれたようだ。自慢のマリちゃんの文章を久しぶりに読んでもらう。ジッさんは、旅館の先代の主人に恩義があるので、西伊豆に骨を埋める覚悟だという。それはジッさんの固い意志である。
マリちゃんも、将来は旅館のおかみになるのだから、西伊豆に骨を埋めるのだろう。
ここで私のことを書くと、大学時代の一学年上の人で、箱根湯本の旅館の娘さんがいた。かなりの美人の人なのだが、話し始めるととてもきさくで、悪戯っぽいところもあった。悪戯っぽいというより、新しいアイデアやら独特の視点からの見方で人を楽しませようとするのが好きな人というべきか。現在はもう立派な美人おかみになっていることだろう。
旅館の娘さんたちは、ひとたび女将見習いの修行に入ると、遠出もままならず、地元に密着した生活になるのではないだろうか。だから親御さんは、娘がそうなる前に、普通の娘さんのように同年代の友だちをつくってコンサートに出かけたり、買物に出かけたり、そんな普通の娘さんらしい経験をさせてあげたいと思って、東京の大学に出すのだと思う。
「そうして別居している父が縁談を持って来た時、芳子は意外だった。
『お前には苦労をかけてすまなかった。こうこういうわけの娘ですから、お嫁というよりも、楽しい娘時代を取りもどさせてやって下さいと先方の母親によく話してある。』
父にそんなことを言われると芳子は泣いた。」(川端康成「かけす」)
長八の宿のマリちゃんは、学生時代に恋をしたようで、卒業して伊豆へ戻ってからも、東京の彼と文通をしている。だが最近は彼からの返事の手紙が少ないという。マリちゃんは、時にいらいらしてジッさんを叱ったりする。
作者のつげ氏は、マリちゃんの恋の行く末が気になるから、そんなことを書くのだろう。
ジッさんは今と変らないまま伊豆に骨を埋めることだろう。マリちゃんは今と同じではないだろうが、やがてはおかみになる。
そんな二人の姿がこまやかに描かれたとき、骨の埋めどころのない旅人の姿が浮かび上がってくる。それは作者自身の孤独のことでもあるのかもしれない。
しかし、ジッさんも一人でその地に骨を埋めようというのだから、孤独のはずである。そしてマリちゃんも恋の孤独に耐えている。対極に見えたものが、一つのものに見えてくる。
『長八の宿』という作品は、そんな人たちが一つに見えてくるような場所なのだろう。
【追加】 旅ものと呼ばれる作品ではあるが、それを語るに際しては、単に主体の側だけで語るのも、片手落ちのような気がする。それぞれの土地に根づき、埋没して生きているかのような無数の無名の人の存在をなしにしては、「旅」は語れない。