しらふ倶楽部

昭和の漫画(劇画)を遠望する

石子順造を読む

 久しぶりに、石子順造氏の本を取り寄せて読んだ。
 『マンガ/キッチュ 石子順造サブカルチャー論集成小学館クリエイティブ 2011年発行
「単行本未収録」の小論などを集成した本である。

 氏の生前の「単行本」は、共著をふくめて15冊ほどだが、その全部を読了したもので、今も蔵書にある。全部ということは、一種の「ファン」ということになるのだろう。氏が亡くなった年もはっきり記憶にあり、1977年だった。

 さて、本をぱらぱらとめくって拾い読み。「存在論的アンチ・マンガ」とか「アクチュアリティ」とか、今はあまり使うことのなくなった言葉にふれるのは、懐かしい。
他にも時代を感じさせる用語が少しあるので、再版して大ヒットというわけにはいかないのかもしれない。

 320ページあたりでは、歌謡曲が論じられる。
……日本人は「道」を好み、神の道、人の道、芸の道など、さまざまな道がある。日本人は道ばかりで広場を持たなかったという論があるようだが、そうではなく、「道」はときとして広場にもなりえた例がある。現代は、新宿西口広場を通路だと主張するような混乱にみられるように、本来の「道」を失ってしまったのが、われわれの近代だということになる。といったところが要約だろうか。
 無自覚のうちにわれわれを拘束している「近代」なるものは、常に重要なテーマだった。氏の『近代における表現の呪縛』という本は、最も難解かもしれず、時間をかけて熟読した記憶がある。近代とは何かというのは、近世研究の歪みにもかかわることで、私の一生のテーマになったと思う。

 蔵書目録を検索したら『国文学』1975年1月号が出た。
 その雑誌を開いてみると、氏の「お賽銭と風景」という小論があり、読んでみた。
……都会のビルの広場に、現代の彫刻家による「えびす様」の像が建ち、いつしかそこにお賽銭が上げられるようになる。一方、古くは寺院の仏像だったらしい像が、博物館の所蔵物となり、ガラスケースに陳列されて、人々は入場料を払って見る。近代は、仏像を博物館の所有財産にしてしまうのだが、人々の支払う入場料には従来のお賽銭の意味も含まれるのではないかという見方もでき、一方では芸術家の作品の前にお賽銭が置かれるという現実もあり、この両者の接点にあるのが「キッチュなるもの」であり、それらを見る者の視覚にもキッチュ性があるのだという、いかにも石子氏らしい一文だった。
(蔵書目録は索引が十分構築できていれば、『美術手帖』など他の雑誌も多数出たと思うが)

 331ページあたり。
「赤瀬川の「模型千円札」は、事物と行為にかかわって、いやおうもなく芸術と国家がともに制度であることを、その陥落部において対象化したと思える」
という文が目に入る。
 この「制度」という言葉から、わが高校三年のときの一件を思い出した。国語の教科書に丸山真男の「『であること』と『すること』」の一部が載り、教諭の作った試験問題は、次の言葉は「であること」と「すること」のどちらか、という設問だった。これはつまり、たとえば「有権者」は「であること」、「投票」は「すること」といった具合である。提示された言葉の中に「制度」というのがあった。石子氏の「芸術と国家がともに制度である」という用法が身についているので、それは拘束力その他の力を持つものであるので「すること」だと回答したが、「×」をもらった。後で答え合わせの時間に、「意見がある者は言え」というので、そのことを発言したら、「制度は運用によってどのようにでもなるので『であること』だ」とのこと、制度とは紙に書いた規則と同様のものという解釈だった。しっくり来ないものがあったが、ともあれ、丸山の本は、その後一度も読むことはなかった。

 さて、ファンであるということは、書かれた内容についてだけでなく、個人的な体質などに同調するものがあったに違いないと思うのだが、それが何かはよくわからない。旧家の跡取りだったことは共通するのかもしれない。
 石子氏はどうも会話のおしゃべりな人のように見えるが、私はそうではない。しかし、つげ義春氏などは、親しい相手にだけ少々おしゃべりになるらしい。親しい相手が多いか少ないかの問題に過ぎないかもしれれず、私は圧倒的に少ないのかもしれない。私の父のほうがおしゃべりの場面が多かったと思うが、昔の大家族で育ったせいだろう。大家族とは、当主の末弟と当主の長子の年齢差が少なく、あらゆる世代の構成員がいるものである。また所謂、片肺であることも氏と父と共通していた。
 私と好対照な面のほうが気になる。石子氏は高校時代は運動選手だったらしい。そうした基礎体力は、積極的な研究や執筆には不可欠だったのではないかと、老後の最近は思うようになった。石子氏の病気入院中に大量読書した話があるが、私は発熱や胸やけのときは読書意欲もなくなるので、体質が違うのだろうとしかいいようがない。

 

 「お賽銭と風景」は、没後10年頃の著作集の一にも二にもないので、単行本未収録かもしれない。著作集三は買いそびれたが、古書店ではかなり高値になっている。

 以下蔵書リストより。

石子順造