しらふ倶楽部

昭和の漫画(劇画)を遠望する

つげ義春作品の探偵物的要素

 つげ義春について、短編が主ではあるが、物語やストーリー展開の「上手さ」ということは、たびたび指摘されている。『つげ義春漫画術』という長時間インタビューの本によれば、つげ氏の若い時代には、探偵小説では、横溝正史のようなおどろおどろしいものは好まず、江戸川乱歩のような構成が論理的できっちりしたものを好んだと語っている。対談相手の権藤晋氏は、つげ氏が意外に論理的で科学的な思考をする人だという再認識の弁を述べている。

 つげ氏のある単行本の巻末に付いていた「自分史」を読んだとき、自身の作家活動にはあまり触れず、貧困や悲惨な話ばかりを書いたものを読んだことがあるが、時折り再読しながら思ったことは、これはつげ氏自身の神経症の対策のため、自ら書いた精神分析のノート書きがあったのを、「自分史」の執筆依頼があったときに、ほとんどそのまま書き写したものではないかと思った。四歳のときの記述で、死に臨む父の姿への恐怖感が詳細に書かれているのに、その病名が(最初のものでは)書かれていなかったのは、自身の分析を優先したためだろう。正津勉氏との対談で、フロイトユングなど精神分析の本も何冊も読破したとも語っていたので、それで間違いなかろう。悲惨な記述は、つげ氏の科学的な分析のなせるわざということになる。

 また、つげ作品の魅力のひとつには、あのユーモアがある。
 世間の「笑い」の作品については、多くは時代が少し変われば面白くなくなることが多いのではないかと思うが、つげ氏のユーモアはそのようなものとは異質で、読者が人生経験を重ねるほど、微笑ましく読めることに気づく人も多いのではないかと思う。柳田国男の『笑いの本願』によると、笑いと笑みは別のものであって、つげ氏のものは「笑み」になるが、つげ作品のユーモアについては、別稿で述べたい。

つげ義春 二峡渓谷
  (画像は、つげ義春「二峡渓谷」より)

 さて、論理性の面から、探偵小説的な要素を、つげ作品から思い出すままに拾ってみる(つげファンなら、1行の説明だけで場面が思い浮かぶだろう)。

運命        捕物事件の逃走犯は、大阪から来た友人なのか。どんでん返しあり。
不思議な絵    絵が地図のように見えたので、その地図の道をたどってゆく。
チーコ        小鳥を死なせてしまい「逃げた」と嘘を言うが、嘘がばれそうな緊迫感
通夜        死体は生きた男の演技か?
峠の犬        近所の犬が行方不明、峠の茶屋にいるのを見る
西部田村事件    病院を脱走した男の捜索から始まる
長八の宿    禁止になった旅館のパンフレットを見ることはできるだろうか。
        パンフレットの写真の女性は誰か。
二岐渓谷    バナナを盗んだ犯人は誰か
夏の思いで    ひき逃げ事故で倒れた女に近付き過ぎ。犯人と疑われないかと心配する
事件        奇妙な事件、男は車中で火を付ける
懐かしい人    おヨネさんのいた旅館に泊ってみると、現れた女中は……?
退屈な部屋    秘密でアパートの一室を借りる。すぐに妻にばれる
日の戯れ    競輪場の窓口で、手に目印しの包帯 言葉なら合言葉になるが

庶民御宿    行商人の話の真偽を確認に商人宿にゆく
会津の釣宿    床屋の娘が風呂に入ったまま流れて来たという。今も床屋に娘はいたが?
池袋百点会    営業の須山が広告料を使い込んでスキヤキを食う。津部も共犯となるが、
        負債を踏み倒して伊守たちが夜逃げしてきて、共犯は問われなくなる。
隣りの女    警察の検問を抜けて闇米を輸送するときのスリル

とりあえず、ここまで。
 謎を提示して、その謎解きがある。探偵小説ではないので、謎を長く引っ張ることはない。しかし謎解きがあたっときに、「なーんだ」で終ることはなく、謎が解かれたあとの展開について、強烈な余韻を残すことが多い。
「運命」では、友人は逃走犯ではないとわかるが、友人がいなかったら逃走犯の遺児は拾われなかったろうとか、
「通夜」では、死体は生きていたとわかり、ならば、なぜ死体を装っていたのだろうとか、
「峠の犬」では、消息不明の犬を発見したとき、人の遁世のありかたと重ねてしまうなど(遁世というより、死後の世界でめぐりあったようにも読める)。

 提示された謎は、比較的早く謎解きがなされる。それらは、連歌を連ねて行くような、さらに次の展開が待っているような、長く続く展開の中で、途中の印象的な転換部分の前後だけを抽出して物語としているような印象を受けることもある。
(つづく)