しらふ倶楽部

昭和の漫画(劇画)を遠望する

自分史的漫画50年史(3)1963年

●1963年

    週刊少年キングなど
 63年2月号で『日の丸』が休刊になったあと、3月か4月ごろ、叔母がまちがって『少年ブック』ではなく『少年画報』を買ってきてくれた。それでも『少年画報』の懸賞に応募すると、当選はなかったが、少年画報社から『週刊少年キング』の創刊の案内の葉書が届いた。葉書には割引券が数枚ついていて、割引券があると創刊号の定価40円が30円になるという。だが実際は予定日より1日か2日早く書店に出て、それを見た友達が、券がなくても30円だったと言った。
 創刊号から何冊かは、自分の小使いで買ったと思う。4年生になってから我が家では、低額の小使い制度が始まっていた。子供用自転車を買ってもらっていたので、自分で本屋まで出かけるようになった。
 『少年キング』では「忍者部隊月光」「0戦はやと」などのタイトルが記憶にあるが、テレビ化されたからだろう。手塚と違ってどちらも絵はモダンでなく、古い印象がして、夢中になることはなかった。1月から始まったアニメの「鉄腕アトム」が大人気となったころである。少年キングの連載の顔ぶれををみると「アンチ・鉄腕アトム」のような感もなくはない。別の読者層を狙ったということだろうか。
 少年キングの創刊の年の表紙の画像を検索してみると、戦争や忍者の絵、スポーツ選手の写真ばかりで、私の好みとは違ったようである。60年代の少年雑誌 のページを見ると雑誌の表紙に戦闘機や軍艦の絵が多いのはなぜだろう。その後、半年くらいは漫画雑誌は読まなかったかもしれない。

 姉の雑誌で見た、ちばてつやの漫画が、なんとなく記憶にある。不運に見舞われた母と娘が住む貧しい家に、更に不幸が襲いかかりそうになって、次回に続く、という内容だった。戦前の吉屋信子少女小説以来のパターンということだと思うが、夢中になって読んだ記憶がある。

    科学ブック
 小使いとは別に、『科学ブック』という画報スタイルの宅配雑誌を毎月届けてもらっていた。
『科学ブック』で記憶にあるのは鉄道の特集号で、近未来の「弾丸列車」の想像図があったのだが、色は緑色が基調で、車体が低くずんぐりしたデザインに描かれていた。翌年10月に開業した新幹線ひかり号のような爽やかな色彩でモダンなデザインのものではなかった。しかし、それなりに夢はあったと思う。
 『科学ブック』は、1年余りで配達のバイクの人が来なくなって中断したように思う。
 『科学ブック』は世界文化社の発行で、数年でリメイク版に切り替わって、何種類か違う版があるようだ。画像検索で当時の表紙画像を探すと、第1号が昭和38年5月発行の『中級 科学ブック』が、私の見たもので、表紙は写真を採用している。
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=281298585
「中級」が付かないのもあり、低学年向けかもしれない。

アトム大使(カッパコミクス)より

  カッパコミクス 鉄腕アトム
 1963年は、1月からテレビアニメの『鉄腕アトム』の放映が開始された。大人気になり、他社からも多くの国産アニメが登場し、「鉄腕アトム」は戦後児童漫画の代表作ということになった。
 手塚治虫は、アニメの成功に自信を得たのであろう、もともとモダンな画風の上に、科学的な知識にもとづくSF物や異なる文明社会の物語を得意とする漫画家なので、一時の低迷を脱して、その方面の人気作を次々に創り出していった。63年は、SF専門誌の『SFマガジン』に「SF ファンシー・フリー」という短編シリーズを連載した年であり、それ以後は、SF物としても読みこたえのある作品が多くなっていったと思う。、
 ただし人口の多い団塊世代にとっては、63年は中学3年前後になっていたので、アニメに夢中になることはなく、少年雑誌も卒業のころだった。彼らにとっての手塚漫画は強い印象はなかったろう。主流は「赤胴鈴之助」「ビリーパック」「いがぐり君」「月光仮面」などの時代だった。

 そして12月からカッパコミクスの『鉄腕アトム』が毎月発売され、初期のアトムに触れることができるようになった。詳細は次回へ