しらふ倶楽部

雨と影、知逢ふところ

菊地信義の『装幀の本』

菊地信義氏は本の装幀でおなじみの人だが、
『装幀の本』(リブロポート1989年4月)という本がある。
その年は平成元年なので、内容は昭和時代の(菊地氏にとっては初期の)本の装幀の仕事のことになる。
いくつか気になる本が載っていた。漫画家の絵をデザインに採用した装幀である。同書からスキャナしようかと思ったが、ネットから借りた画像にした。

★印の3冊を次に表示。1つめは、鈴木翁二『少年手帖』(1982)にも収録された絵。
鈴木翁二の絵
 ★平出隆詩集   思潮社(1977)
 ★途方にくれて 立松和平 集英社(1978)
 熊猫荘点景 金子兜太 冬樹社(1981)〔猫の絵〕
安部慎一の絵
 ★愛より速く 斎藤綾子 JICC出版局(1981)
佐々木マキの絵
 羊男のクリスマス 村上春樹 講談社(1985)

シラケ世代と自律神経失調症

 中学高校生時代というのは、何かスポーツなどで少しは体を動かしたほうが良いのだろうということを、自身の反省をこめて、いつか子孫などに言い残そうと思っていた私の若い日があった。
 学生のころは体調が悪いと何事も欠席が多くなり、おそらく「つきあいの悪い人」ということになっていて、研究分野でも助けられたり助けたりが少なくなっていたように思う。
 体が弱い人でも立派な業績を残す人があるが、短命な人が多いのではないか。たとえ命を縮めてもという判断なのだろうか。そうした判断以前に、私の場合は、疲れることは今日はやめにしようということになっていた。
 平均並みの体力があったほうが、文系の仕事にもプラスになるだろうと、思っていたことがあったのである。

 しかし最近の私については、体が弱いというよりも、自律神経に問題ありと思うようになった。子ども時代からの車酔いをはじめ、すぐに息苦しくなって運動が続けられなかったとか、思い当たることはいくらでもある。
 60歳を過ぎると早死にをする人が目につくようになるが、あの人は体が弱かったから……などといわれると、自分は自律神経が先にエンストを起こすので、無理をせずにここまで生きてこられたに違いないとも思うようになった。プラス面もあるのである。
 人によっては体の弱さを忘れてしまうほど仕事に集中してしまって体を壊し、早死にをすることもあるのではないか。そのような無理を今までしなかったのは、何事も明日やればよいと考えたからで、その「明日」がある年齢まではじゅうぶんにあったからであるが、残り時間が少なくなった今は、無理をしてしまいそうな気もする。

 以上は、まったく個人的な問題のつもりで、書いた。

 ところが、
 『自律神経失調症の謎』(鈴木修二、有斐閣新書 1982)
という本を見ていたら、次の部分に目が止まった。

「理屈を言わない人は救われる率が高いんですよ。もっとも、自律神経失調症の人は、よく言えば醒めている。悪く言えば疑い深いから、お祈りさんではまずだめですね。」

「醒めている」「疑い深い」というのは、われらシラケ世代の特徴でもあった。それは、自律神経失調症の人の特徴でもあるという。
 前述した「助けられたり助けたりが少ない」というのは、派閥を作らないという意味であく、相互協力で上昇を志向する意志がないという意味でもあって、そうした傾向は自律神経失調症と関連がありそうだと書いたつもりなのだが、この本によってそれは裏づけられていることになる。
 ただしそれらは、シラケ世代全般の特徴でもあるとすると、どうなるのか。
 シラケ世代に、自律神経失調症が多い可能性もあるのだが、両者の関係について、考えていきたいと思っている。

「『ガロ』と北海道のマンガ家たち展」記念誌

「『ガロ』と北海道のマンガ家たち展」記念誌
(市立)小樽文学舘 2016年
ガロの元「編集長長井勝一没後20年」での企画があり、その記念のパンフレットを最近借りたので読んでみた。

類似の特集雑誌などを読んではいないが、本書は小冊子ながら、充実した内容になっていると思う。武田巧太郎、高野慎三山中潤、各当事者たちの文は、単なる回想にとどまらず、この分野の歴史の重要なひとコマをよく描いている。微妙な意見の食違いや、本人の反省の弁なども書かれ、2016年当時ガロについて一般誌ではとりあげられることもあまりなかったとすれば、この一冊は貴重なものであろう。(内容については略)

作家代表として鈴木翁二氏の10代のころの回想記もある。父や自死した高校教師などが氏にとって重要な人物であるように読める。1少年漫画、2貸本漫画、3ガロ、の順で、小学生時代から上京のころなどのことが書かれる。
1 少年漫画時代は、少年雑誌を真似たものを作ったとか(私もやりました)。
2 貸本劇画については、「粗雑な絵」が特徴の一つといい、作者と読者の距離感の近さ、少年の自分でも書けそうな近さのことをあげている。
3『ガロ』については、最初に同誌を与えてくれたのが父親だという話は、独特だろう。

貸本屋は、昭和30年代の全盛期には全国で数万軒もあったらしく、中には1坪半くらいの小さい店もあった。徒歩で5分か10分くらいの範囲に1000軒の所帯がある場所なら、成り立ったろう。
そうでない場合は、農家や自営業の子は、学校から帰っても家の仕事の手伝いがあるのが普通で、けっこう忙しい。我が家でも風呂焚きなどを子どもが担当したが、ある時期に石油で風呂をわかすようになってから、子どもの仕事がなくなった。貸本屋のあったところは、銭湯があったところでもあるので、そういうところでは、子どもの風呂焚きの仕事はなかったことだろう。

『最後の空襲 熊谷』、反戦とは何か


終戦の日の前夜、8月14日に、埼玉県熊谷市の市街地が米軍の空襲を受けて、甚大な被害をこうむった熊谷空襲について、70数年を経て可能な限りの人々の記憶を残そうとした書である。

『最後の空襲熊谷 8月14・15日 戦禍の記憶と継承』熊谷空襲を忘れない市民の会、社会評論社2020

本を開いてすぐ、当日の被災状況を示す地図はないかと探すと、巻末の資料編にあった。
地図を見ると、中山道を中心に市街のほとんどは焼け野原となったようだが、駅や鉄道施設に被害はない。ほかに熊谷寺から東の役所の多いエリアも空襲を受けていない。
本文によれば、終戦前夜の急な空襲の理由について、4つの理由を想定しているが、そのうちの1つ、戦後の米軍支配に便利なように(鉄道などを残す)というのが1番であろう。3月の東京大空襲の被災を免れたエリアについても同様のコメントをきくことがある。
東洋人に対しては無差別的な空襲も問題視しない白人が多くいたというのは、本書のいくつかの理由項目には入ってなかったと思う。

熊谷空襲

 座談会では、若干意味不明な発言が気になるところもある。
「変らないでしょう。今だってそんなに変らない。当時は神様でしたから。象徴天皇はGHQが作ったものですよね。日本の歴史にはないですね。」
 変らないといいながら、日本の歴史に全くなかったものが、初めてGHQによって作られたという。このへんは、右派の発言と奇妙な一致を見てしまうので要注意だ。(普通は明治から戦前期の西洋を真似た「軍人皇族」の時代だけが異常な時代とみる歴史家が多い)
「奇妙な一致」とは、江戸時代を非人道的な暗黒社会だったという歴史の歪曲についても、明治の末ごろから、右派と左派で奇妙な一致を見ていた(佐藤常雄『貧農史観を見直す』)。そこから一気に軍国化が進んだ。その過程では、反天皇制ばかり主張して反戦のハの字も言わなかった者たちの問題も、小さくはなかったはずだ。(昭和の戦前、戦中における)反戦の否定についても奇妙な一致があったとしかいいようがない。

 大事なのは、反戦ということ。

手塚治虫の『グランドール』

 『グランドール』とは、手塚治虫のSF漫画(異星人の侵略物)である(1968年「少年ブック」連載)。
 侵略者は、グランドールというあやつり人形を、人間の姿に変えて人間たちのなかに紛れ込ませ、人間全体を操ろうとする。
 哲男少年が助けた少女は、グランドールだった。少年はふだんから意志の弱いような性格だったので、自分はグランドールではないかと信じこまされようとする恐怖。少年と少女は、交流をもつうちに、少年は自分の意志をしっかり持つようになり、少女はグランドールであることをやめたいと思うようになる。
 結末は、少年はグランドールではなく、少女は、グランドールであるどころか、侵略者そのものであって、少年を実験台に人間までをも操ろうと試したのだという。少年への情に迷いはあっても、侵略者は負けを認めて撤退する。。
 少女との出会いが少年を成長させたという意味で、青春物という面もある。いつか次の侵略者が派遣されるだろうといっても、何もなければ、すべての事件は少年の日に見た一瞬の夢のようでもあり、幻のようでもある。
 当時人気がいまいちだったというのは、すべては友だちにだまされたもので終るという点にもあるだろう。少年誌でなく青年誌であるなら、二人は男女の関係になるので、実を結ばないこともあり、その意味もやがてわかるだろうと納得させられる。同じ部屋で寝ている場面があるのだから、本来は青年誌向きなのだろう。

 

 以上は旧稿だが、手塚治虫漫画全集の著者あとがきでは、SFとして高度な内容なので一般受けしなかったろうと書かれている。その他の理由としては、あるいは、全ては親友にだまされて終りというのが、少年受けしなかったのではないか。男女でも親友の関係になりうるというのは、大人には理解できなかろうが、少年には納得できるはずである。しかし大事な親友に騙されていたという話は、いただけない。
 14~15歳ごろの子供ともいえないような年齢なら、大人の世界が少し見えるようでもあり、面白く読めるかもしれない。

 

談 100号記念選集

『談 100号記念選集』は、『談』という雑誌が2014年に通巻100号を記念して発行されたアンソロジーである。500ページ超の厚い本。
9784880653488

http://dan21.livedoor.biz/archives/52014417.html

いくつか拾い読みして目についたページは、
「ガストロノマドジー事始め」(石毛直道樺山紘一・対談)。
見なれないカタカナ語だったが、読んでみると、食文化について西洋と日本の比較、日中の比較などから、それぞれの民族の歴史や文明論ほかさまざまに語られ、最後は性の問題にもふみこんでいる。
性については、新しい研究のためにはフィールドワークが重要との認識で一致したが、両対談者とも、そのためには年齢的に時期を失したという、落語のようなオチもついている。

 

石毛 そういう意味では、われわれ日本人は 世界で最も食欲不振の民族なんです。
樺山 そうですね。実質は本当におとなしい 食生活、おとなしい性生活をやっているんだと 思いますね。聞けば日本人はラブホテルで若 いカップルでもシャワーを浴びてからセックス をするという。ヨーロッパ人は違う。やはり 臭いが残っていないと、食欲がわかないという ことですかね。それに対して日本人はものを 食べるのに、洗ってからでないと食べられない。
石毛 その代わりというか、一方で日本人の 性に対するテクノロジーというのは、向こう の連中から言わせたらものすごいものがある。
樺山 こちらテクノロジー、あちらエネルギー という気がしますね。

 

所有欲あるいは愛欲や食欲などで、西洋人のエネルギーにくらべ、たんぱくな日本人は食欲不振のようなものであるらしい。
たしか西洋人のエネルギーは、死後に至るまで他人を拘束しようとし、死者が裁判にかけられる話を別の本で読んだことがある。
自然物への徹底的な加工の欲望も、そうしないと、所有物にならないという認識なのかもしれない。

日本人が魚を生で食べるのは、いつでも自然に返せるようにとか、人間自身が自然に近づけるようにとかいうことなのかどうか。
シャンソンの『愛の讃歌』の歌詞は、映画の字幕で直訳に近いものを見たが、愛のためには反社会的行為も辞さないという激しい内容だった。あちらではそれが普通なのだろう。岩谷時子の日本語訳は、あの時代では女性が熱い愛欲を語るだけで斬新だったと思うが、それだけでは今聞くと平凡に聞こえる。
日本の従来の歌謡は、なんでも思い出にして語るのが多い。

編集長のS氏は、38年前の1984年ころから同誌の編集に携わっているらしい。その年は個人的に私の身辺が急に慌ただしくなった年である。39年ぶりくらいに連絡をとったら、良い贈り物(この本)をいただいた。
(公益財団法人たばこ総合研究センター、水曜社の発行)

 

『少年手帖』発刊40周年

鈴木翁二著『少年手帖』(望遠鏡社版)は、1982年6月30日の発行である。
本の奥付にある雨影知逢という人物が、本ブログの管理人ことわたくしのことであるが、ちょっと出過ぎの感があり恥入るばかりであるので、もし再刊の折りには該当かしょは目立たなくするのが良いと思う。

 

個人的な話になるが、小学生のころから雑誌のようなものを作るのが趣味で、あるときは弟を巻き込み、あるときは同級生たちを集めて作り、あるときは一人に戻り、編集長は自然にわたくしになっていた。高校1年で立ちあげた漫画研究会は翌年に下級生も若干加わった。漫画が多いのは、最初に手本にした少年雑誌に漫画が多かったからであろう。
(学生時代に参加した某会は年長者が多かったので、編集長にはならなかったが、あの会は会誌も出せなかったような気がする)
そんなわけで、子供編集長のまま成長してしまった感があり、人に迷惑をかけたこともあるであろう。
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さて1970年代に、FM雑誌というのが隔週で何種類か発行され、購入者のお目当てはFM放送の2週ぶんの番組表であり、番組表をマークしながら、エアチェック(放送をカセットテープに録音すること)するのが主目的だった。
FM雑誌に臨時増刊号というのがあり、オーディオ機器の特集の内容だが、ある古書店で手にとってみると、B5判サイズの鈴木翁二氏のイラストが何枚も掲載されているものがあった。古雑誌が200円(珈琲1杯分)としても4枚の絵なら1枚50円で高いものとも思えない。あとでいろんな雑誌に少しづつ同様の絵が掲載されていたことも知ることになった。
その雑誌からの4枚の切抜きは、本を作るときに利用され(著者のもとに原画がなかったため)、本の完成後に他の原画を著者に返送するときに、これらの切抜きも一緒に送った。
それからちょうど40年になる。

つげ義春の『長八の宿』

 つげ義春の『長八の宿』は、ある青年が、西伊豆にある「長八の宿」と呼ばれる旅館に宿泊したときの話になっている。
 旅館の女中さんたちや下男のジッさんたちと、青年とのユーモラスなやりとりが、ほほえましく楽しい。

 

 女中頭のお金さんは、建物のしっくい細工について、自慢げに説明する。青年が温泉に入ると、下男のジッさんから、旅館のお嬢さんのマリちゃんが作ったパンフレットがあることを聞く。ジッさんは、東京の大学を出たマリちゃんのことが自慢げである。
 夕食になり、女中のトヨちゃんにパンフレットのことを質問してみると、トヨちゃんは急に恥かしそうな態度になるのもユーモラスな場面だが、パンフレットには温泉に入る女性の写真が載っているという。女中さんたちが後ろ姿で写っているらしい。
 翌朝、ジッさんに頼むと、1枚だけといってパンフレットを見せてくれた。ジッさんは字が読めないので、青年客に声を出して読んでもらいたくて見せてくれたようだ。自慢のマリちゃんの文章を久しぶりに読んでもらう。ジッさんは、旅館の先代の主人に恩義があるので、西伊豆に骨を埋める覚悟だという。それはジッさんの固い意志である。
 マリちゃんも、将来は旅館のおかみになるのだから、西伊豆に骨を埋めるのだろう。

 

 ここで私のことを書くと、大学時代の一学年上の人で、箱根湯本の旅館の娘さんがいた。かなりの美人の人なのだが、話し始めるととてもきさくで、悪戯っぽいところもあった。悪戯っぽいというより、新しいアイデアやら独特の視点からの見方で人を楽しませようとするのが好きな人というべきか。現在はもう立派な美人おかみになっていることだろう。
 箱根湯本なら小田急で通学可能な大学はいくつもあるが、西伊豆では、東京へ下宿しなければならないと思う。
 旅館の娘さんたちは、ひとたび女将見習いの修行に入ると、遠出もままならず、地元に密着した生活になるのではないだろうか。だから親御さんは、娘がそうなる前に、普通の娘さんのように同年代の友だちをつくってコンサートに出かけたり、買物に出かけたり、そんな普通の娘さんらしい経験をさせてあげたいと思って、東京の大学に出すのだと思う。

 

 似たような父親の気持ちについては、川端康成の『掌の小説』の「かけす」に書かれていた(川端康成は今年没後50年)。父自身の離婚や再婚で苦労をかけた長女への言葉である。

「そうして別居している父が縁談を持って来た時、芳子は意外だった。
『お前には苦労をかけてすまなかった。こうこういうわけの娘ですから、お嫁というよりも、楽しい娘時代を取りもどさせてやって下さいと先方の母親によく話してある。』
 父にそんなことを言われると芳子は泣いた。」(川端康成「かけす」)

 

 長八の宿のマリちゃんは、学生時代に恋をしたようで、卒業して伊豆へ戻ってからも、東京の彼と文通をしている。だが最近は彼からの返事の手紙が少ないという。マリちゃんは、時にいらいらしてジッさんを叱ったりする。
 作者のつげ氏は、マリちゃんの恋の行く末が気になるから、そんなことを書くのだろう。
 ジッさんは今と変らないまま伊豆に骨を埋めることだろう。マリちゃんは今と同じではないだろうが、やがてはおかみになる。
 そんな二人の姿がこまやかに描かれたとき、骨の埋めどころのない旅人の姿が浮かび上がってくる。それは作者自身の孤独のことでもあるのかもしれない。
 しかし、ジッさんも一人でその地に骨を埋めようというのだから、孤独のはずである。そしてマリちゃんも恋の孤独に耐えている。対極に見えたものが、一つのものに見えてくる。
 『長八の宿』という作品は、そんな人たちが一つに見えてくるような場所なのだろう。
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『長八の宿』のマリちゃんとジッさん
つげ義春氏は女性にもてる人でもあり、女性にやさしい作品が多い。最近のネットではインパクトの強い画像ばかりが切り取られてあふれているが、人の目を引くためにそうなるのだろう。)

つげ義春と私の「童謡詩集」

 私の20代のころの作文は、ボキャブラリ不足のため注釈なしでは読めない難文が多いが、『童謡詩集』は例外である。
 中学生時代は手塚治虫風の漫画を書いていたが、高校1年の秋につげ義春の漫画にふれて、手塚風のタッチから脱却をこころみるようになったのだった。
 しかし一人旅をしたこともない高校生に何が書けるか。『ねじ式』を真似するくらいのところだった。
 数年後につげの『大場電気鍍金工業所』などの少年時代を回顧する漫画作品を見て、その影響でできたのが私の『童謡詩集』だと思うのだが、私が『大場電気鍍金工業所』を見たのはいつであろうか。
 童謡詩集は、1977年2月に謄写版で文庫サイズ50頁弱で印刷したものだが、主要部分は1975年7月にまとめて書き上げたというメモがある。
 『大場電気鍍金工業所』は、1973年4月の『別冊・漫画ストーリー』に発表されたものだが、手にとってみたこともない雑誌である。最初に単行本に収録された本を調べてみると……

『夢の散歩』(北冬書房)1975年6月

 これであろう。童謡詩集の1か月前である。
 この本には懐古的な作品はいくつか収録されているが、少年期をあつかったものが『大場電気鍍金工業所』である。これなら真似できるかもしれないと思った。
 『大場電気鍍金工業所』は、少年と周囲の大人たちの生活が描かれているが、朝鮮戦争の時代が背景にあり、貧困層の大人たちも金儲けの話に目がくらむが、手を出すのは博奕のようなもので失敗していったということが少し描かれている。
 私の童謡詩集でも、いくつかは社会問題を背後に描こうとしている。昭和30年代でもまだ戦争の爪あとは残り、弾薬工場の跡地の地下壕やコンクリートの瓦礫の中で遊んだ私の子ども時代を回想した詩も載せた。
 ほんとうは、漫画で書きたかったのだが、そのときは童謡詩ふうのものが次から次へと頭に浮かんできて、短期間で集中して書上げた。
 40数年後の今、やはり漫画で書きたいという気になっている。『ねじ式』の亜流ではない、つげ義春の影響を受けましたといえるものを一つくらいは書きたいと思う。

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空想科学漫画『忘れられた小道』(銀音夢書房)

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印刷ショップへ送ったデータを取り違えてしまって、表紙と背に作者の名がのらないなどのミスが出たため、背表紙の一部から裏表紙の一部にかけてシールを貼ることになった。発行元(銀音夢書房)の名義はシールの背と裏の2か所に載る。
 以下は、後書き風の「解説」の一部。

 

 『忘れられた小道』は、一九六八年、作者の十四歳から十五歳にかけての習作である。「空想科学漫画」と銘打ち、物語の舞台は197X年の近未来の日本。内容は無邪気で、絵も粗雑なものだが、手塚治虫の強い影響のもとに、ユーモアも満載の楽しい昭和漫画だという感想もあるようだ。
 第三巻に「数年前の1970年」に起こったベトナムの核戦争で被災した少女が登場する。一九六八年の時点で一九七〇年代を想像し、そこから「数年前」におこりうる事件を想像しての話である。
 第一巻は、宇宙人から地球人への立ち退き要求の通告で始まる。太陽系が「宇宙航路」計画のための予定空間になるため、立ち退きが要求された。これは当時の成田空港新設問題などにゆれる日本社会を反映したものなのだろう。
 宇宙航路とは、定期便などの宇宙船が通行するための専用空間のことだろうが、宇宙は広いのだから、ちっぽけな地球などは避けて通ればよいとも思われる。が、理屈はともかく、宇宙航路のために、太陽系は地球もろとも消し去って何もない状態にしなければならないというストーリーである。地球存亡の危機である。
 子供向けSF漫画の「宇宙人もの」では、無気味な宇宙人による地球侵略か、あるいは高度な文明から地球人の戦争や環境破壊行為に制裁を与えるという類が多かったが、本作では、立ち退き問題という卑近な話になっている。結末は宇宙人どうしの内紛によって地球の危機は回避されるというものである。スーパーヒーローの活躍はない。
 それはいかにも後のシラケ世代の予備軍らしい醒めた見方であるのかもしれない。しかしやがて熱狂するものを失った時代の混迷の中にさらされることを思えば、書くことの楽しさを知った中学生時代の熱中こそが、「忘れられた小道」そのものだったのではないだろうか。