しらふ倶楽部

昭和の漫画(劇画)を遠望する

モダニストについて少し

手塚治虫とモダニズムについては、われながら新しい見方で面白いと思ったが、
これまで日本のモダニズムなるものについて、論評などはあまり読んだことがないので、最近になって少し本をあさっている。
昭和初期の日本モダニズムは、あまり思想的なものはなく、風俗重視が特徴だという通説の通り、評論類はあまり面白いものが見つからない。

自分自身の読書歴をふりかえってみると、モダニストといってもよい著者のものを好んで読んできたような気がする。
たとえば、マンガや美術評論では、石子順造。石子のことを、要するにモダニストだと高野慎三氏が対談か何かで語っていた。高野氏も銅板建築の写真集を出すくらいだから、モダニスト的なところがあるのではないか。
エッセイ集でいちばん冊数を読んだのは丸谷才一だが、モダニズム文学はこの人だろう。
もっと古い作家を調べると、ある雑誌が「伊藤整モダニズム」の特集を組んでいたので、伊藤整のエッセイ『芸術は何のためにあるのか』を読んでみると、初めて読む文体ではないような気がして、これがモダニストの文章かと、納得した。ユーモアに富み、論理的で、曖昧な表現がないのが良い(論理性はもの足りないところもあるが)。

以上、三人の名をあげたが、ある共通点に気づいた。三人とも芸術文学裁判の弁護人または当事者である。赤瀬川原平の千円札裁判における石子順造四畳半襖の下張り裁判の丸谷才一、チャタレー裁判の伊藤整。なにか意味がありそうだ。

もう一人手塚治虫の名を最初に書いたが、手塚は、悪書追放運動の当事者でもあった。

モダニズムと手塚治虫

 手塚治虫の初期の習作のいくつかは、文庫全集の1冊で読むことができるようになった。それらを読むと、可愛らしい少年少女は登場しないことに気づく。大人たちばかりが出てくるストーリーである。女性は、羽根が生えて空を飛んだりするが、洋装の大人である。
男性は、美形ではなく、中にはグロテスクな顔立ちの人物が目立つ。
 それは一つの違和感であったのだが、そのとき思ったのは、日本の昭和モダニズムの「エログロナンセンス」という言葉だった。手塚治虫の基本にあるものは、昭和モダニズムではないかと思った。

 晩年の作、という言い方は一般にはされないが、グロテスクを感じることがあり、好みではなくなったように思ったのだが、手塚治虫の基本の一部ではないかと思うようになった。以後の手塚作品では、美少年を主人公とする作は、めっきり少なくなるのである。
 『ブラックジャック』で違和感とともに記憶に残るのは、人間の少女の肉体と大きな鳥の羽根を外科手術でつなげて空を飛ぶ話である。『ブラックジャック』は金銭の話題も多く基本はリアルの話だと思っていたが、非リアルの、エログロナンセンスなのだと思うようになった。
 デビュー作『新宝島』の共作者の酒井七馬は、手塚は大人漫画の世界に行くだろうと思ったという(『謎のマンガ家酒井七馬伝』)。おそらく手塚の習作のいくつかは目にしていたので、児童漫画の第一人者となったことは意外だったのだろうと思われる。

 「エログロ」のうちのエロチシズムについては、手塚るみ子編の『手塚治虫エロス1000ページ』などが編纂されるくらいである。ファンの誰もが感じていたことである。
手塚るみ子氏によると、手塚は昆虫の生態などにエロチシズムを見るような人だったらしい。
 なるほど、手塚の少年時代の趣味の昆虫採集や諸研究も、科学的な興味とともに、「エログロ」志向もあったのかもしれない。科学的な関心というのも、昭和モダニズムの特徴のひとつである。

 『別冊太陽 乱歩の時代 昭和エロ・グロ・ナンセンス』は、江戸川乱歩の時代のモダニズムについての写真図版が多い。荒俣宏が「機械への嗜好性」という一文を寄せ、「機械趣味のエログロ化」などという表現もある。要するにロボットのエロチシズムのことであろう、まさに手塚漫画に通じるものだと思う。
 荒俣氏のこの一文には、挿絵として煙突が乱立する工場のイラストが載せてある。これを見ると、つげ義春の『おばけ煙突』を連想するのだが、つげ氏は、探偵小説では横溝正史のようなおどろおどろしいものは好まず、江戸川乱歩のように論理的できっちりした筋立のものをよく読んだといい、手塚治虫の魅了はバタ臭いところだったという(『つげ義春漫画術』)。モダニズムの影響はつげ義春まで続いていることがわかる。というより、昭和の漫画はモダニズムとともに普及したといえるのかもしれない。


 同じ別冊太陽に、川崎賢子氏の「美少年・美少女と異装」という一文がある。
川崎氏の本は新書判で宝塚歌劇についてのものを読んだことがあるが、宝塚歌劇エログロナンセンスの時代に男子学生たちのファンが増えて広まったということだった。宝塚歌劇手塚治虫にも大きな影響を与えている。
 別冊太陽のこの一文では、パリのレビューそのほか、「グロテスクと呼ばれる意匠の断片」などが詳細に論じられるが、「美少年」については、あっさりした書き方である。しかし、なぜか本文には名前の出てこない高畠華宵の絵が2枚添えられている。
埴谷雄高によると、高畠華宵蕗谷虹児は少女たちに人気の画家だったと、竹中英太郎についての一文で述べている(『別冊太陽 探偵・怪奇のモダニズム』収録「視覚文化の青春」)。では昭和モダニズムを代表する美少年画家は誰なのか、よくわからない。私の想像では、凛々しい若武者などの少年像が多い画家だろう。だがそれは手塚治虫の体質には合わなかったのではないか。
 モダニズムと総称される傾向のなかには、未来派の美術などもふくまれるそうだが、本場イタリアの未来派では、美少年やゲイの礼賛とともに、ファシズムの傾向に吸収されていったようなところがあるらしい。
 映画などで美男美女が主役であるのは普通のことだろう。しかし昭和初期の美少年像というのは、何か違うものがあるのではないか。それは手塚治虫の拒否するところだった可能性があり、だから描かなかったと思われるのだが、詳細については今後の課題となろう。

手塚治虫の低調期と「のっていた時期」

 ●1954~59年の低調期
手塚漫画で本当に退屈でしかたなく、我慢してなんとか読み通したものが、いくつか記憶にある。「我慢して」というのは、鈴木出版発行の貴重な本を1970年頃に運良く手に入れることができたので、とにかく目を通そうと思ったからである。
 作品タイトルでいううと、『スリル博士』。これは1959年の週刊少年サンデー創刊号からの連載物。
 『ハリケーンZ』はその数年前の作だが、これは手塚自身が再刊したくない作品としていた。
 『ケン1探偵長』などは少しはましだったが、変装シーン以外はやはり退屈だった。

 この時代、1950年代中盤は、手塚治虫の低調期だったといえる。
 低調の原因を考えてみると、主として2つのことが思い浮ぶ。

 1つは、福井英一の『イガグリくん』ブームと流行の背後にあるもの。主人公の下ぶくれの顔で、ずんぐりした体形の少年は、かっこいいとは思えず、少年漫画が退化してしまったような印象さえある。当時の手塚作品にも、そうした流行を真似して、下ぶくれの顔の少年を描いたものがある。迷っていたのだろう。

 思うに、昭和20年代の地方の子どもたちには、少年雑誌を毎月読めるほどの経済的ゆとりはなかったと思われる。都市部や下町なども実際は同様なのだが、朝鮮特需を経てから、貸本屋が急増し、貸本屋では雑誌も読めた。
 高度経済成長の始まりとされる昭和30年頃には、地方にも少年雑誌は普及して行った。それ以前は作り手が主体で、手塚のようなバタ臭い絵も支持されたが、急激に増えた新しい読者層には、『イガグリくん』や『赤胴鈴之助』のような絵が人気だったのかもしれない。ただし手塚のような科学や海外に目を広げた文明批評をともなう作品も、時代の需要はあり、一定の支持はあったと思う。
 高度成長初期の時代は、歌謡曲では三橋三智也などの時代である。その歌詞は田舎の生活を外から感傷的に見た風情のもので、それが良い悪いではなく、背景は理解できなくはない。つげ忠男は歌謡曲で良かったのは昭和28年(1953)までだと言ったが、私は、55年前後の頃から変ったと見ていたのだが、リアルタイムで聴いていたわけではないので、たぶん同様の見方をしていたのだろうと思う。

2つめは、悪書追放運動
 教育関係者?が主催の吊し上げ集会に何度も呼ばれた手塚は、逃げも隠れもせず、堂々と渡り合ったという(うしおそうじ手塚治虫とボク』)。鳩山一郎首相は悪書追放を宣言し、大宅壮一まで手塚を「阪僑」だと皮肉った。手塚はよく耐え忍んだと思うが、やはり作品の自由な発想などに影響が出ないはずがない。不十分な作品であっても、書き飛ばしたのは、将来のアニメ制作の資金のためもあったかもしれない。
 当時大阪で胎動を始めた劇画の影響で、手塚が悩んだとする論もあるようだが、それは劇画に対する後世の誤解が原因のように思う。悪書追放運動のとき当然貸本劇画も対象になったが、いちばん矢面に立ってくれたのは手塚治虫だった。劇画の人たちもまた、手塚漫画の延長上に劇画が誕生したという認識であり、共感と讚辞を送っていたはずだ。
 なぜこの時期に悪書追放運動がおこったかといえば、やはり少年雑誌の発行部数が急増し、初めて大人たちの目にとまって、一部の者が騒ぎ立てたのが始まりなのだろうと思う。
 56~57年のライオンブックスは、この時期のものでは傑作といわれるが、低迷を脱出しようとして、実験的な短編という形になったのだろうか。良質のものがゼロだった時期というわけでもない。そして手塚の本格的な復活といえるものは、59年秋からの『0マン』ということになろう。

  ●「のっていた時期」
 1963年に、テレビアニメの『鉄腕アトム』が始まる。その後、虫プロは経営難となり、73年に倒産。その間の時代を、手塚の低迷期とする論評があるが、アニメと漫画を混同したマスコミ発の見方にすぎないと思う。ここでもまた、一般雑誌に進出した劇画勢の影響を関連づける評論もあるようだが、それは違うというよりも、低迷期ではなかったというのが実際である。
 手塚自身のエッセイなどでも、この時期を経営的に大変だったと書くことがあるが、全集の「あとがき」のいくつかを読むと、大変だった時期の作品だが、自信作だ、という書き方をするものが少なくない。「火の鳥」をはじめ、「W3」、「人間ども集まれ」などのSFも好調。青年誌では「地球を呑む」「空気の底」など独自のエロチシズムでファン層を広げ、低迷した時代とはとても思えない。低迷期とする論評には、どの作品が駄作だったかの具体例がないことに気づくべきだろう。
 66~67年の『フライング・ベン』のあとがきでは、「のっていた時期なのでかいていてたのしかったです」と書いている。この作が自信作とは書いてないが、『COM』創刊のころであり、やはり、のりにのっていた時期なのである。

 講談社現代新書桜井哲夫著『手塚治虫』は、手塚の評伝という本なのだろうが、1960年代の虫プロ時代については、アニメ経営者としての話題が中心なので、「のっていた時期」だったことを読者は見落とす可能性がある。桜井氏自身も、この時期の手塚作品は『空気の底』をはじめ「かなり暗いものが多い」などと書いている。
 しかし手塚本人は、アニメの成功によって自信がみなぎり、漫画作家としても「のっていた時期」だと言っている。私もそう思う。

 なぜ「のっていた時期」を見逃してしまうのか、それは世代的なものもあるのかもしれない。
 私自身は、手塚が低調期を脱している61年、ソ連ガガーリン少佐が「地球は青かった」と言った年に、宇宙物の『ナンバー7』で手塚を知り、そしてカッパコミックスや新書判ブームで旧作も読み、中学2年で『COM』を読み始めて、高校3年で『COM』休刊(卒業)、10歳代ないし小中高時代が手塚の「のっていた時期」と重なっている。手塚ファンとしては最も幸運な世代なのではないかと思う。
 桜井氏のような団塊世代では、手塚に最初に触れたとき、手塚は低調期だった。中学後半になってアニメのアトムに夢中になれるだろうか。『COM』創刊のとき大学生では、よっぽどのマニアの大学生でなければ毎月読まないだろう。虫プロの倒産は、社会人としてシビアに見ていたであろう。

  ●低調期の話に戻る
 ここまで書いたところで、手塚治虫文庫全集『冒険放送局』が届いた。
巻末に手塚プロ森晴路氏の「解説」があり、集英社の雑誌『おもしろブック』51年12月号から59年6月号までのことに触れている。その期間中の同誌には、手塚は『ピピちゃん』『銀河少年』『ワンダーくん』『風之進がんばる』『ライオンブックス』『地球大戦』『ジャングルタロ』というふうに「ほぼ連続的に連載している。」「しかし残念ながらいずれの作品も未完に終わっている。激しい人気競争があり、その結果連載を途中で打ち切られたものと思われる」(森氏)とのことである。
 手塚ほどの漫画家の連載が、不人気を理由に連載を打切られたとは、しかも7作連続連載打切りということに驚いた。普通は1~2回打ち切られれば以後は不採用になると思うので、7回連続というのは、新記録になるかもしれない。

 不人気の理由は何であろうか。
 『ライオンブックス』については、内容がマニアック過ぎたためといわれる。
その他については、同誌でどんな漫画が人気だったかの資料もなく、わからない。
 この本には書名になった『冒険放送局』などは小学館学年誌だが、併録の『地球大戦』などが『おもしろブック』である。後者では、コマ割が細かく、手塚らしくないところがあり、手塚らしさを抑えているのかもしれない。理由は、編集者の意向で、悪書として名指しされないためだろうか。人気が上がらないため、本人が別のものを描きたくなって打ち切りにしてしまうのかもしれないが、新作も編集者の意見を取り入れすぎてしまうとか。当時の雑誌は編集者の意向が非常に強かったとは、つげ義春氏も語っているが、この時代が特にそうだったような印象もあるのだが、私の想像の域を出ないかもしれない。
学年誌でコマ割が小さくないのは、まだA5判だったのかもしれない)

手塚作品は、4期に分けられると思う。
46~53年 初期。大阪の赤本時代と雑誌進出時代。
54~59年 低調期。
59~71年 「のっていた時期」
72~88年 晩年(グロテスクの傾向がみられる)

モダニズムとグロテスクについて、この続きを書いているが、まだまとまらない。

『マンガ黄金時代』

『マンガ黄金時代』は、
かつての『ガロ』と『COM』を主体に、1960年代後半~70年代前半の記憶に残る短編32編を750ページにまとめた文藝春秋の分厚い文庫本である。当時では、つげ忠男鈴木翁二までが文庫本で読める画期的な本だった。一種のアンソロジーといっても良いかもしれない。

発行の1986年は昭和61年、昭和も最後のころである。個人的には、1986年の当時は、ゆっくり読む余裕のなかった時期だったが。

今回、青柳祐介の『いきぬき』を読んでみた。最初に読んだのは1967年の末で、中学2年生だったので、大学浪人の青春の話は、よくわからなかったかもしれない。
センチメンタルな青春ストーリーである。
青年は田舎から出てきて予備校に通う浪人生、大学受験に2回も失敗しながら、母親の仕送りで、意気地のない生活をしている。
 こういう設定は、東大レベルの大学をめざし、家も裕福なのだろうとみるのだが……。
 街で偶然見かけた女性は、高校の同級生で、昔話で盛り上がった風でもないが、暗くなるまで一緒に遊び歩いて、彼女の誘いで彼女のアパートの部屋にまで行く。やさ男かと思っていたら、高校時代はラグビー部の選手で人気者だったらしいことが、二人の会話でわかるが、二人は男女の関係にはならずに、男が去る。そういう青春もあった。
 しかしラグビー部だったというのは、記憶のイメージとは異なっていた。絵も永島慎二風だと今回気づいた。

もう一つ、鈴木翁二の『マッチ一本の話』を読もうと思ったが、小さい文字が老いた目にはきつい。(この作は『ガロ』掲載作だが、『COM』のほうが字が大きくゴシック体で文庫サイズでは見やすい。)
絵だけ眺めていると、この本の中では、つげ義春と並んで最も魅力的な絵だとわかる。つげ義春の影響をうけていますということが、絵を見てすぐわかるのも良いと思う。この本でつげ義春の影響が感じられる絵は、他には、つげ忠男赤瀬川原平、あとは淀川さんぽくらいだろうか。意外に少ない。安部慎一池上遼一が入らなかったせいか。
 つげ義春の影響を強く受けた作家たちのアンソロジーという企画はどうだろう。

林静一の絵も、影響力の大きい良い絵だということがわかる。映像作家などへの影響もあったのではないか。

紙芝居と広場

紙芝居と広場

貸本屋とマンガの棚』(高野慎三著、ちくま文庫)だったと思うが、
「紙芝居の衰退の原因をテレビの影響とする説には大きな無理がある」(38p)
という一文が目に入り、その前後などを読んでみた。

紙芝居とは、自転車の荷台に紙芝居の道具と駄菓子などを積んで、おじさんがやってくると、子どもたちが集まった、あの紙芝居のことである。
紙芝居の衰退は、1953年ごろから急速に始まったらしい。テレビも1953年から開始された。
だが、当時のテレビの普及率は微々たるものであって、テレビが紙芝居を衰えさせたという説には確かに無理がある。原因は、映画と貸本マンガのブームにあるだろうという。なるほどと、ひざを打ったものだった。
幾十年かを経て、マスコミなどが繰返しテレビ原因説を言ううちに、人々の記憶まで"刷り込み"によって変化することもあるだろうという。

私の記憶では、地方では62年ごろまで紙芝居はポツポツ来ていたが、都市部ではもっと早く消えていたようだ。当時62年ごろに見た紙芝居は、定期的に頻繁に現れる物ではなく、気まぐれに突然現れたように思う。絵には印刷のものもあり、内容はそれほど子供たちが夢中になるほどのものでもなく、親に小使いをもらって駄菓子目当ての子が10人あまり集まる程度だった。
貸本屋やら映画館やらとは縁遠い農村部において、まだかろうじて紙芝居は残存していたということだと思う。63年にはテレビアニメの「鉄腕アトム」が始まり、紙芝居は村部でも最終的に消えていったということなのだろうと思う。

我が家の門の脇には広場があったのだが、紙芝居は広場ではなく、門の前に来た。門は東向きで、道路からは10メートルほど奥まったところに門があった。紙芝居は道路寄りに自転車を駐め、子どもたちは門を背にして集まった。
門付け芸人という言葉があるが、門付けとは、門の側に付くことからそう呼ばれたろうと池田弥三郎氏が著書でいう。門付け芸は、門の中の屋敷内には入らず、公衆道路でもないような、その境界のエリアに来たことになる。脇にあった広場は、江戸時代には高札場でもあり、それが村の名主の屋敷の造りなのだろう。そこには神明様も祀られ、芸人たちは遠慮したのかもしれない。

都市部でも屋敷の門の前の広場は、広さはさまざまでも、存在したであろう。志ん朝の落語『井戸の茶碗』では、江戸の細川邸宅の門の側には清正公様(加藤清正を祀る)が祀られ、その前で行商人たちが休息する場面があり、そこは広場でもあった。
近代になり、都市計画や道路拡張、震災や戦災からの復興の過程で、すぐにそれとわかる門のそばの広場というのは、次第に消えていったと想像できる。
1960年代には、新宿西口広場というのが存在した。60年代末には、そこは「広場ではない。通路だ」ということになったらしい。都市計画が進んでいた時代だったのだろうが、「道路の側の広場」という配置は、昔のまま踏襲されていたのではないかと思う。

広場の消滅が、紙芝居の衰退の原因だというわけでもない。独立した広場というのが消えていっても、道はいつでも広場に代りうるし、紙芝居は場所によっては路地裏に来ていた。紙芝居は広場と道路の境界に現れるものだったし、広場と決まったわけではない。辻占や辻商いなど、道端で商売をする者は昔から多かった。

そうした曖昧な広場は、屋敷の門の前のほかに、集落の外れの境界付近の、辻と呼ばれるあたりにも多かったろう。そこは、農村では疫病退散の祠があったりしたが、同時に別の集落の者も集まれる場であった。都市部でも同様だろうが、疫病神の退散よりも、他との交流などが重視されるものだったのではないか。そこは塞の神の支配する場所であり、流浪の客神も集まる場所だった。

屋敷の門の前の、門付けの場所にも、芸人たちによってある種の神が臨時に招き寄せられた。
「辻」とは「①道路が十字形に交叉している所。四辻」と書かれ、確かに漢字の「辻」には「十」という要素が含まれ、よくできた国字である。しかし日本のツジは、実際は三叉路や丁字路が主体ではなかったかと思う。日光街道奥州街道が宇都宮で別れるように、もっと小規模の村の古い絵図面の地図を見ると、二股に別れる道ばかりが多く、人家と人家の間には、門までの短い馬入れ道はあるが、家の前の道はどこまで行っても脇に入る道がないようなところも多い。
二股の地には、道祖神や地蔵がよくある。大きな木の枝が二股になっている部分には、木俣の神が祀られるように、そこは特別の呪力の発生する場所であり、異界との交通が可能の場所であったという解釈もある。
巷(ちまた)というのは道俣のことであるから、元は辻と同じ場所のことだった。その場所は、都市部では複数の町内から人が集まりやすい場所となって、「にぎやかな場所」とか「世間」という意味になったのであろう。

三叉路には、それに接して、三角形の区画の土地が3つできる。そこに四角い建物を建てると、土地が余ることになる。そのような土地が、小さな広場になることもあろう。

辻商いや辻占などは、交差点でもないような普通の道端でも営業したであろうが、どのような場所を選んだのかも興味深い。もっとも時代劇などを見て、ああいう場所だったのかと信じることはできないが、何か基準があったことと思う。門付け芸などの祝祭性があって稀に行なわれるものなら、お屋敷の門の前が重要だろうが、日常的な露店のようなものは、お屋敷の側は避けたようにも思う。

紙芝居については、作品としてストーリーなどを分析し、作品論や作家論として語るのも良いが、それが行なわれた場所についても重要であろうし、同じ場所で行なわれてきた昔の門付芸などに思いを延べるのも一興であろう。

つげ義春の『四つの犯罪』は

つげ義春の『四つの犯罪』は、1957年の貸本マンガであるが、たいへん優れた作品である。
96ページ四話の短編のオムニバス形式なのだが、先日ぱらぱらめくっていて気づいたことがある。
4話のうち3話は、アパート住まいの独身男をめぐる事件だということ。このままで、、
単に4話を並べるだけでは、そのことがすぐにわかってしまい、評価も下がったかもしれないのである。
そこで作者は、温泉宿の宿泊客の4人が、作り話をふくむ怪談話を順番に語るという全体のストーリー構成を思いついたのではないかと思う。上手いと思う。

1話は、舞台となる古い洋館の雰囲気がモダンである。犯罪計画は、人の錯覚を利用したトリックを使って、綿密に語られるが、些細な想定外のことがあって計画倒れになるというオチ。
つげ氏は、横溝正史のようなおどろおどろしい話は好きではないという。江戸川乱歩のようにきっちりしたものを好んだと語っていた。横溝については、映画をいくつか見たことがあるが、舞台となる旧家が「おどろおどろしい」だけで、背後にあるべき古い文化は感じられず、犯罪動機も机上のたんなる空想でリアリティがない。単なるホラーなのだろう。
きっちりしたものとは、当時からつげ作品では犯罪者を断罪したり反省させたりしてオワリというものではないので、犯罪動機に説得力があり、トリックなども科学的で合理的であることをいうのだろう。1話では、1階と2階が同じ間取りの洋館というのも不思議だが魅力である。江戸川乱歩には救いようのない犯罪の話が多いが、若かったつげ氏にはそこまではないが、後年の『別離』などは救いようのない話だと思う。

2話は、売れない漫画家の創作物語である。ストーリーの魅力というよりも、名曲喫茶のシーンや、若い漫画家が「漫画文学なんだぞ」と叫ぶ場面など、印象深い場面のある作品である。望遠鏡などの新しい道具への関心の高さもある。

3話は、遺産を相続した男が、変装趣味で世の中をあざ笑いながら楽しむ話。単なる変装では飽きてしまい、家具や身の回りの道具などを演出して、犯罪がおきたかのように見せかけるというなかなか手のこんだ話になっている。
以上の3話では、犯罪そのものが実行されたわけではない。

4話は、犬猿の中の二人の男どうしの殺人事件なのだが、被害者と犯人がどちらなのかがあいまいで、そのまま終るかと思ったら、話を聞いていた旅館の経営者が、自分が犯人だと名のり出るのも説得力がありそうなのだが、彼はすぐに作り話だと否定して、笑いの中で話は終る。

最初の道入部では、温泉客の4人が集まったいきさつについて、説明が長すぎるように思えた。「話好き」の4人が「十日以上もいた」ので楽しかったというのだが、実際にそういうことはよくあったのだろうか。普段は雑談でもたまたま偶然にその日だけが飛び入りもあり印象深い夜だったというふうなのが私の好みなのだが、キーワードは「話好き」であり、不思議な話を多く思いつく作家というのは、そういう人のことなのかもしれない。

アトム今昔物語 復刻版

『アトム今昔物語 復刻版』 メディアファクトリー 2004

アトム今昔物語は、1967年1月から69年2月まで、サンケイ新聞に連載されたものだが、単行本化のときに100ページもカットされたとのことで(全集版も同じ)、そのノーカット版がこの「復刻版」ということになる。2000年代に出版されたものだが、取り寄せて読んでみた。
新聞連載当時は、中学生として毎日読んでいた記憶がある。

物語は、2017年に太陽に突入(?)したかと思われたアトムが、イナゴ星人に救出され、その星のスカラという女性とともに地球へ戻るとき、50年前の1967年へタイムスリップしてしまう。
1967年とは連載開始の年である。アトムはその時代の四畳半のアパートに暮らしたり、当時の日本の生活が懐かしく思い出される。また、若き日のお茶の水博士や、ヒゲオヤジ探偵(の親)も登場し、そのへんは、わくわくする内容だった。

アトムは、40年前の時代に戻ってしまったので、エネルギーを補給できない。あと何日まで持つのだろうかと、心配しながら連載を読んでいた記憶がある。節約して使って半年とも書かれていた。
ビルの崩壊事故にまきこまれた人を助けるべきか、アトムは躊躇する場面がある。もちろん自分のエネルギー保持のことを優先するアトムではない。

けれども、アトムは、建物から外へ出るたびに、壁や窓を破壊する。エネルギーのムダ使いをしているように思えた。それがアトムらしくて、かっこいいのだろうか。そんなことが繰り返されるうちに、だんだん面白くなくなっていったのだった。
エネルギーを節約する工夫の話などが、いろいろと出てくるかと期待したが、それもなかった。節約のことなので、こじきのシンちゃんに相談すれるのがいちばん良いと思った。
案の定、大長編になるかと思われたこの物語は、だんだん面白くなくなっていった。

アトム今昔物語

ところで、昭和30年以前の
アトム連載の初期のころのものを見ると、アトムは小学生の服装で学校に通い、子供たちどうしで一緒にいる場面が多い。空を飛んだり戦闘場面になると、アトムは服を脱ぎ捨て、パンツ一つの裸になる。窓や壁を破るときも裸である。
「海蛇島の巻」をはじめ、面白い作品ででは、アトムは裸の場面が非常に少ないことがわかる。
アトム今昔物語でも、退屈な場面が長く続くときは、アトムは常に裸なのだった。

ウルトラマンなどは、3分間だけしかウルトラマンでいられないのだが、
アトムは制限時間なしで、まじめに働きすぎなのかもしれない。
やはり昭和30年代は、高度経済成長の時代だった。

自分史的漫画史~1964 鉄腕アトム

●1964年

 鉄腕アトムのテレビ放送の開始から1年になろうというころに、カッパ・コミクス『鉄腕アトム』が創刊された。
 「光文社のカッパ・コミクス鉄腕アトムは日本ではじめてのコミック雑誌です」と謳われ、内容は「鉄腕アトム」の連載初期のものを収録した単行本のようでもあった。アトムの漫画が約100ページ、科学記事や、読者投稿、「アトムクラブ」などで10ページ程度である。付録にシールが付いて、定価120~130円。66年9月まで2年9か月続いたが、最初の1年余りだけでも初期の鉄腕アトムに触れて熱中できたことは好運だったと思う。

 カッパ・コミクスは外見は子供向け絵本のようなところもあったが、漫画単行本の新しい形だったともいえる。それ以前は、漫画の単行本は、貸本屋向けを除けば、雑誌に付いている付録の小さいものだけだった。大判のカッパコミックスは、家庭に保存される新しいスタイルの漫画単行本だった。各社がカッパコミクスに追随したが、どこもテレビアニメ化された作品に限られていたように思う。
やがて漫画単行本の主流は、2年後の66年から新書判となり、小型になってページ数も増えたのだった。
 連載記事の「アトム・クラブ」は、カッパコミクス終了後に、『鉄腕アトム・クラブ』という小雑誌となり、そして1967年から雑誌『COM(コム)』へと発展した。

 筆者はカッパコミクスの前半期を小学生時代に経験し、中学生の67年春から『COM』を読むようになった。初期の新書判ブームも経験した。マンガ世代の典型ではないかと思う。

 さてカッパコミクス鉄腕アトムで、最も印象に残っているのは、2号の「海蛇島の巻」と3号の「赤いネコの巻」である。
 この2作品の特徴は、自然描写が美しい点にもあるといえる。

鉄腕アトム 海蛇島の巻


 「海蛇島」は、海岸に流れ着いた小瓶の中に入っていた手紙を見つけ、南方の島の海底に幽閉されている少女が助けを求めた手紙であることがわかり、少女たちをアトムが救出する物語である
 少女は、「まだ一度も陸の上の世界を見たことがない」という。アトムは途中で南の秘境の島へ迷いこんだりの冒険もあり、アトムの頭の形が歪んだり、首が取れてしまったりするのは、昔の説経節の流浪物語の面影を感じる。島の娘の横恋慕もある。首を取られたすきにアトムは少女を救出することが可能になったのだが、ロボットなので首のスペアはちゃんとあるというのは、漫画らしい。南の島の異文明世界との接触があり、異文化への尊重と共存、そして出会いがあり別れがある。それらが美しい背景とともに描かれた佳品といえるだろう。
 異文明世界との交流については、手塚作品の最も重要なテーマだといえるので、いづれ文章をまとめてみたい。

鉄腕アトム 海蛇島の巻2

 

冊子印刷での画像の解像度について

近年、安価な冊子印刷が普及している。冊子には画像を多く使いたいが、画像の解像度はどの程度が適切かという問題である。

冊子作成の流れは、ワープロだけでも十分であり、ワープロ文書に画像を挿入しページ番号なども整えて、文書保存はPDF形式で保存し、そのPDFファイルを印刷ショップに送るだけである。
ワープロでは、編集画面での画像表示は小さくても、実際の画像データは保存文書内でしっかりオリジナルサイズのままなので、巨大画像を多く使えば、ワープロの操作が重くなり、ワープロが停止してエラーになることもある。可能な限りオリジナル画像を小さくすることで、編集作業を円滑にすることができるはずである。

一般に、印刷用画像の解像度は、300dpiが標準であるといわれる。
dpiとは、dots per inch、画像の長さ1インチ当りのドット(ピクセル)の数のことである。300dpiは、1mm当り約12ドットになる。
印刷文字でいうと、ワープロの標準文字サイズの10.5ポイントは、およそ3.75mmなので、300dpiでは、12×3.75 で45ドットになる。Windows95のころ、専用プリンタは24ドット文字から48ドット文字にグレードアップしたが、その解像度で十分ということになる。それ以後のプリンタは、解像度よりもカラー写真の色を重視してきたと思う。

300dpiで印刷文字も十分となると、挿入画像はどうであろうか。
A6判文庫本サイズの横幅は105mmだが、余白を除いた印刷幅は、漫画本でも88mmなので、300dpiなら、12×88で、1056ピクセルになる。85mmなら1020ピクセル。これはちょうどXGAサイズと呼ばれる画面サイズ(1024ピクセル)にかなり近い。デジカメでは80万画素がこの大きさである。
A4判ならその2倍サイズということになる。A5なら漫画『つげ義春大全』が印刷幅125mmなのでちょうど1500ピクセル。漫画本でなければ印刷面はより小さいのが普通である。

300dpiの画像とは、その横幅が文庫本なら1024ピクセルA5なら1500ピクセルという憶えやすい数字になる。

ワープロの編集画面の1ページの表示幅が400~500ピクセル程度だとしても、画像データをそこまで小さくしてはいけない)

投稿用漫画原稿は、内枠幅180mm(B5印刷時の120%、用紙サイズはほぼA4)なので、スキャナ解像度300dpiなら2160ピクセルの画像になる。200dpiなら1440ピクセルで、A5用1500ピクセルに近い。A5に縮小して印刷するなら、スキャナも縮小に合わせて200dpiで十分ということになる。
マチュアの漫画作品ということになると、細かい線画に自信がある人でなければ、もう少しdpiを落としても良いだろう。

さて、もう一つの問題は、写真画像の明暗調整の問題である。安価な印刷では見本印刷の仕上りを見てからの発注ができないので、手探りでの調整にならざるをえない。
古書店の在庫目録に掲載の印刷写真を見ると、非常に暗い画像ばかりになっていて、写真はほんの参考に載せただけということなのだろうが、その他でも暗過ぎる写真画像を載せた印刷物はよく見かける。

暗すぎる原因を想像してみると、編集者のPCのディスプレイ表示が、明るめの設定であったり、コントラストを強調した設定になっていると、実際の画像データが暗過ぎるものであることに気づかないこともあろう。
印刷ショップでも、漫画のベタがかすれずにくっきり出ますというのが宣伝になるので、一律に暗めの印刷にしていることもあるかもしれない(最近は黒ベタがかすれている印刷物はあまり見かけない)。
その原因は不明だが、ともかく写真画像はガンマ値を上げるなど明るめに調整したほうが良いようではある。

新年、このブログの今後

昨年の春から始めたこのブログであるが、アクセスはいたって少なく、あまり読まれていない。
別のブログでなまじ成功体験のようなものがあったので(学研ブログランキング評論部門1位)、書けばそこそこ読まれると思っていたが、甘いのだろう。

しかしこの分野(ガロ系漫画など)は、もともと一般の関心の高いものではなかったと思う。
1970年代中盤以後、鈴木翁二安部慎一の単行本は限定版で部数は1000部以下だったように記憶する。つげ義春の新作が発表され続けた『夜行』は、第1集が3000部だったという。
筆者は気づかなかったが、近年のことで、北冬書房のブログというのがあったらしく、未公表のつげ義春氏の旅行写真多数が発表され続けたが、あまりにアクセスが少なく、ブログは中止になったともいう。

ブログというのは、その時点で一般の関心の高い内容を頻繁に更新しなければ固定ファンは付かないのだろう。SNS時代になってからは更に難しくなり、google経由で個別の記事のアクセスが少しある程度ではなかろうか。多彩な内容の記事であれば、googleで1日数十件のアクセスもあろうが、そうでなければ数件程度、そんなところだろう。

とりあえずは、個人的に書き残しておきたいことの下書を溜めておく場所として、細々と継続してゆくしかない。
漫画や劇画以外の、歌謡や音楽など、その他についても、書いておきたいものがあるような気がする。