しらふ倶楽部

漫画と劇画の懐かしき日々

自分史的漫画50年史(1)1961年

1961年~62年

 子どものころに見た漫画の最も古い記憶は、雑誌『日の丸』に連載されていた手塚治虫の「ナンバー7」のある1ページである。小学2年生のときだった。
 『日の丸』は集英社の低学年向けの少年誌であり、高学年(小学上級~中学)向けが『少年ブック』だった。
 「ナンバー7」のその場面は、病室で少女が隠そうとしている脚が、無気味だった。それは彼女が宇宙人であることの証拠なのである。
 「ナンバー7」とは、地球防衛隊の7番めの隊員という意味で、宇宙人の侵略から防衛する任務にあり、主人公の七郎のことである。七郎の友達のキミコには、宇宙人のスパイではないかという疑いがあった。実際に宇宙人だったのだが、彼女の脚は、異様であり、衝撃的な絵で描かれていた。見たときの恐怖感が、強い記憶に残ったのだと思う。女は理解しがたいものという観念を植え付けてくれたかもしれない。
 画像は、1980年の講談社手塚治虫漫画全集からのもの。

手塚治虫「ナンバー7」より

 全集では4冊から成り、この場面が掲載されたのは、4冊の配分から、昭和36年の7月号の別冊付録だと推定できる。私は小学校2年生だった。

 推定は、次のように行なった。
『ナンバー7』の講談社版の4冊は、1と3が約180ページ)、2と4が約200ページである。雑誌での連載は、1961年1月号から63年2月号(休刊号)までの全26回。半分の13回分が1、2巻収録分であろう。本のページ数から、1~6回で1巻、7~13回までの7回分で2巻と推定できる。
 画像の部分は講談社版第2巻の25ページなので、連載第7回目の終盤ということになる。前後のコマ割を見ると、B6判の別冊付録から再構成されたコマ割である。

 私が見た『日の丸』は、古本の可能性もなくはない。60年代前半は、古本屋で付録付きの少年雑誌がときどき売られていた。それらはたぶん読み古しのものではなく、書店で売れ残ったものが返品され、特別のルートで地方の古本屋へ流れたものと思う。雑誌は毎月出るものなので、せいぜい1~2か月の月遅れで古本屋に並ぶのだろう。叔母の7月のボーナスか何かで、月遅れのものを買ってくれたのかもしれない。毎月買ってもらえたわけではない。

 ところで、古い少年雑誌の付録は、駄菓子屋でも、一冊づつ新聞紙を糊付けした袋に入れられて、1つ5円か10円で売っていた。袋は密封されて中身が何かはわからないので、手さぐりで、付録本か組立付録かの見当をつけることはできた。「さぐり」と言っていた。付録本では手塚にはめったに当たらないので、私は組立て付録のほうを選ぶことが多かった。

 そのほか、絵本か雑誌の絵物語で、河童の絵を見たぼんやりとした記憶がある。1年生のときかもしれない。

 そのころ(1961年)は、我が家にテレビがやってきて、ソ連の宇宙飛行士のガガーリン少佐が地球を周回して「地球は青かった」とコメントしたニュースが流れ、子どもたちも胸躍らせたものだった。アニメのフィリップを見た記憶もある。放送年は不明だがNHKみんなのうたで。「おお牧場はみどり」、シャンソンの「街の靴屋さん」、カントリー民謡の「赤い河の谷間」などを聞いた。

 2年の担任のH先生は、国語の授業の中で、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や「杜子春」の物語を、本を読むのではなく講談のように語ってくれた。
 理科の授業で、小さな藁半紙を配り、三日月が空にどのように見えるか書くように言われた。三日月は西の空に低く見えるものなのだが、近くの席の優秀と思われる女の子が、南の空高く描いていたのが脇から見えて、驚いた。全体の正解率もかなり低かった。ちゃんと見てる人は少ないのだと思った。
 図画工作のときにサーカスの象の絵を描いたら、校内で入選となり、さらに先生が広域のコンクールに出品したらしく、そちらの賞ももらった。さらにその絵は、翌年に2年生の「なつやすみのとも」の表紙を飾ることになった。そのとき私は3年生なので、近所の2年生の子が見せてくれた。
 私のその絵は、割箸を竹ペンのように作って描いたもので、子供らしく、伸びやかに描かれたものだと思う。上級生になると、だんだんと絵はリアリズムの方向へ行って、挿絵のような図柄になって行った。
 「なつやすみのとも 2年生」(埼玉県版 昭和37年)であるが、今は入手困難のようである。

万力のある本棚(つげ義春編)

つげ義春漫画術』は、つげ氏の全作品をふりかえってのインタビューが中心の本で、索引は特にない。そこで、話題に出た本と著者の名前を、リストアップしてみた。
当時つげ氏が読んでいた本、作品のヒントになったり影響を与えたかもしれない本などの一覧ということになる。
いくつかを我が家の、(ミニチュアだが)万力のある本棚に並べてみた(★印)。

つげ義春漫画術 上巻)
122p 生きていた幽霊    江戸川乱歩二銭銅貨」「心理試験」〔『江戸川乱歩傑作選』(新潮文庫)など〕
154 ある一夜    手塚治虫罪と罰』〔『手塚治虫漫画全集』など〕
169    太宰治「ダス・ゲマイネ」〔★太宰治走れメロス』(新潮文庫)など〕
(下巻)
28p 沼    井伏鱒二「言葉について」〔★『山椒魚』(新潮文庫)など〕
57 通夜    「今昔物語」「日本霊異記」「聊斎志異」「唐代伝奇集」「剪刀新話」
64 山椒魚    島尾敏雄 カフカ★ サルトル「壁」 カミユ「シジフォスの神話」
    「異邦人」★について広津和郎中村光夫
68 李さん一家    椎名麟三 梅崎春生
    唐木順三「無用者の系譜」 井原西鶴西鶴置土産』~ぼうふら売り
76 峠の犬    唐木順三(同前) ヘーゲル ニーチェ 般若経 良寛 親鸞
89 紅い花    太宰治「魚服記」〔★『晩年』〕
104 西部田村事件    柳田国男の文庫本★
128 ねじ式    埴谷雄高『虚空』 ★『現代文学の発見』~「存在の探求」「物語の饗宴」
154 もっきり屋の少女    『人間存在の心理学』(川島書店
160 やなぎ屋主人    網走番外地(歌謡曲
181 夏の思い出    女優の叶順子、フランソワーズ・アルヌール
197 大場電気鍍金工業所    つげ忠男「昭和御詠歌」
206 リアリズムの宿    芥川龍之介蜘蛛の糸」を朗読する少年
215 枯野の宿    添田知道利根川随歩』 『利根川』(現代教養文庫
222 義男の青春    宇野浩二「軍港行進曲」 
    作品中のセリフに葛西善蔵坂口安吾川崎長太郎
251 コマツ岬の生活    正木ひろし夢日記
264 魚石    柴田宵曲の本
292 近所の景色    作品に梶井基次郎の引用あり
358 探石行    良寛
367 蒸発    井月

ほかに宮本常一の本★

わが家の万力のある本棚


他の対談で「文化地理体系」の名が出てくるが、 小学館の『図説日本文化地理大系』全18巻 のこと。

手元に平凡社の『世界文化地理大系』日本編5冊があるので、そこからの画像。

文化地理大系 東北 千人風呂

 

つげ義春作品の探偵物的要素

 つげ義春について、短編が主ではあるが、物語やストーリー展開の「上手さ」ということは、たびたび指摘されている。『つげ義春漫画術』という長時間インタビューの本によれば、つげ氏の若い時代には、探偵小説では、横溝正史のようなおどろおどろしいものは好まず、江戸川乱歩のような構成が論理的できっちりしたものを好んだと語っている。対談相手の権藤晋氏は、つげ氏が意外に論理的で科学的な思考をする人だという再認識の弁を述べている。

 つげ氏のある単行本の巻末に付いていた「自分史」を読んだとき、自身の作家活動にはあまり触れず、貧困や悲惨な話ばかりを書いたものを読んだことがあるが、時折り再読しながら思ったことは、これはつげ氏自身の神経症の対策のため、自ら書いた精神分析のノート書きがあったのを、「自分史」の執筆依頼があったときに、ほとんどそのまま書き写したものではないかと思った。四歳のときの記述で、死に臨む父の姿への恐怖感が詳細に書かれているのに、その病名が(最初のものでは)書かれていなかったのは、自身の分析を優先したためだろう。正津勉氏との対談で、フロイトユングなど精神分析の本も何冊も読破したとも語っていたので、それで間違いなかろう。悲惨な記述は、つげ氏の科学的な分析のなせるわざということになる。

 また、つげ作品の魅力のひとつには、あのユーモアがある。
 世間の「笑い」の作品については、多くは時代が少し変われば面白くなくなることが多いのではないかと思うが、つげ氏のユーモアはそのようなものとは異質で、読者が人生経験を重ねるほど、微笑ましく読めることに気づく人も多いのではないかと思う。柳田国男の『笑いの本願』によると、笑いと笑みは別のものであって、つげ氏のものは「笑み」になるが、つげ作品のユーモアについては、別稿で述べたい。

つげ義春 二峡渓谷
  (画像は、つげ義春「二峡渓谷」より)

 さて、論理性の面から、探偵小説的な要素を、つげ作品から思い出すままに拾ってみる(つげファンなら、1行の説明だけで場面が思い浮かぶだろう)。

運命        捕物事件の逃走犯は、大阪から来た友人なのか。どんでん返しあり。
不思議な絵    絵が地図のように見えたので、その地図の道をたどってゆく。
チーコ        小鳥を死なせてしまい「逃げた」と嘘を言うが、嘘がばれそうな緊迫感
通夜        死体は生きた男の演技か?
峠の犬        近所の犬が行方不明、峠の茶屋にいるのを見る
西部田村事件    病院を脱走した男の捜索から始まる
長八の宿    禁止になった旅館のパンフレットを見ることはできるだろうか。
        パンフレットの写真の女性は誰か。
二岐渓谷    バナナを盗んだ犯人は誰か
夏の思いで    ひき逃げ事故で倒れた女に近付き過ぎ。犯人と疑われないかと心配する
事件        奇妙な事件、男は車中で火を付ける
懐かしい人    おヨネさんのいた旅館に泊ってみると、現れた女中は……?
退屈な部屋    秘密でアパートの一室を借りる。すぐに妻にばれる
日の戯れ    競輪場の窓口で、手に目印しの包帯 言葉なら合言葉になるが

庶民御宿    行商人の話の真偽を確認に商人宿にゆく
会津の釣宿    床屋の娘が風呂に入ったまま流れて来たという。今も床屋に娘はいたが?
池袋百点会    営業の須山が広告料を使い込んでスキヤキを食う。津部も共犯となるが、
        負債を踏み倒して伊守たちが夜逃げしてきて、共犯は問われなくなる。
隣りの女    警察の検問を抜けて闇米を輸送するときのスリル

とりあえず、ここまで。
 謎を提示して、その謎解きがある。探偵小説ではないので、謎を長く引っ張ることはない。しかし謎解きがあたっときに、「なーんだ」で終ることはなく、謎が解かれたあとの展開について、強烈な余韻を残すことが多い。
「運命」では、友人は逃走犯ではないとわかるが、友人がいなかったら逃走犯の遺児は拾われなかったろうとか、
「通夜」では、死体は生きていたとわかり、ならば、なぜ死体を装っていたのだろうとか、
「峠の犬」では、消息不明の犬を発見したとき、人の遁世のありかたと重ねてしまうなど(遁世というより、死後の世界でめぐりあったようにも読める)。

 提示された謎は、比較的早く謎解きがなされる。それらは、連歌を連ねて行くような、さらに次の展開が待っているような、長く続く展開の中で、途中の印象的な転換部分の前後だけを抽出して物語としているような印象を受けることもある。
(つづく)

水木しげるの「妖怪について」というエッセイ

あまり知られていないかもしれないが、昭和の終りのころ
民族宗教研究』という雑誌があり、創刊号は昭和55(1980)年12月1日発行、

民族宗教 創刊号


創刊号の巻頭には、水木しげるの「妖怪について」というエッセイが掲載された。
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=146187693

肩書は「劇画家」になっている。
エッセイの内容は、水木氏があちこちで語っているようなことなのだが、
珍しい雑誌なので、1ページ分だけご紹介。貴重? 珍品かも?

水木しげる 妖怪について

 

「母もの」と継子物語

ねじ式
  (上の画像は、つげ義春の『ねじ式』の一場面。)

寺山修司対談集 浪漫時代』(河出文庫)の中に、「母」と題する石子順造との対談がある。
石子氏の晩年の『子守唄はなぜ哀しいか』(1976)が出た直後のものだろう。「母もの」といわれる映画や文芸をめぐっての内容である。「母もの」についての辞典的な説明はここでは略す(映画でいえば『瞼の母』に代表されるもののことである)。

石子氏によると、母もの作品は明治30年以後に現れ、社会の近代化の過程で、西洋型の神をもたなかった日本人が、近代的自立よりも孤立へ向かったしまったことの反映ではないかという。
なるほど、西洋では絶対神があり悪であるサタンは排除すれば済んだようなところがあるが、日本には八百万の神があり、貧乏神もあれば荒振る神もある。荒振る神などは排除してオワリというわけにはいかない。そのため、いわば癒しとしての母、理想化され「神」に近いような「イメージとしての母」が必要になったともいえる。
「どこかにもう一人本物の母がいる」という意識、それが「イメージとしての母」だと寺山氏もいう。ただしそれは母に限らず、父についても、本当の父親が別のところにいるはずだということを考え続けた国文学者もいたと思う。

ところで日本人は無闇に母を理想化してきたわけではない。継子物語には意地悪な継母がいる。物語の継母は、即ち、母の裏面であろう。「イメージの母」が神に近いものだとすれば、母の魂にも、和魂と荒魂があり、この荒振る母は、日本人には排除の対象ではなく、鎮魂の対象になるのだった。
最近は継子物語もあまり流行らないかもしれないが、昼メロなどに多い嫁姑問題は、継子物語の変種とみることもできる。イメージの母、瞼の母がやや男性的な視線からの見方だとするならば、母もの~継子物語~嫁姑や嫉妬ドラマという一連の物語に女性たちがどのように関わってきたかを考えてゆくのも重要になってくるだろう。

江戸時代の日本人は「土地に緊縛されていた」が、明治時代に土地から相対的に自由になり、母なる故郷の喪失を感じるようになったという面も語られていた。
(読者の誤解なきよう付け加えれば、「土地に緊縛」とは、封建制度のことではなく、税制のことである。田畑の所有権を維持するためには、年貢米等を納めねばならず、耕作しなければならなかった。明治以後は人口増加により、二男三男はそもそも土地を持てなくなって自由になったということ。)

欧米には日本の母もののようなものはないのかもしれない。ただし、ウィーン民謡の「私のママはウィーン生れ」などの歌詞の直訳の翻訳文などを見ると、日本人の目には、ひどいマザコン男に見える。ひどいというのは、日本人によっては気持ち悪いマザコンと感じることもあるだろう。西洋にもホンネとタテマエはあって、ホンネの部分を見たような気がする。日本では1200年前の源氏物語以前から不倫物語はあるが、西洋では源氏よりも新しい「トリスタンとイゾルデ」でも、眉薬を誤って飲んだためにそうなったと言い訳しながらの物語しかなかったといわれ、ホンネは隠され続けてきたかもしれない。

母ものの出現は明治30年代以後だというのは、やはり西洋の小説などにヒントを得たのがきっかけかもしれないと思う。岡本綺堂の捕物帳も西洋の探偵小説だそうだし、時代は新しいが長谷川伸の股旅ものは西部劇。明治30年は「金色夜叉」が書き始められた年である。落語の人情噺なども、同じ時代に整備されていったかもしれないと思う。

加藤泰監督の映画『瞼の母』は傑作だと思う。
ラストシーンについて、長谷川伸の原作の初稿では悲劇的すぎるとして、忠太郎と母が手を取りあって親子の名乗りをあげる話に改作されたものが上演されることが多かったそうだが、加藤泰監督は初稿の結末に戻したらしい(高野信三『宿場行』による)。忠太郎は耐え続けなければならない。
瞼の母は、「そんなに母親に会いたいならば、なぜまともな生活をしていないのか」と言って忠太郎を息子とは認めない。それは世間体がどうのこうのという解釈もあるのかもしれないが、「荒振る母」の一面でもあろう。
また映画では、残暑のころの盆踊の場面に始まり、秋の大井川あたりの渡し、雪の両国橋、富くじの場面と続き、ラストは桜が咲いていたと思うが、季節の風景も美しかった。
一人娘の嫁入りが決まった話は何かの間違いで、婿をとるのが普通だと思う。やくざな兄が現れては妹の縁談に迷惑という設定は良いのだが。

対談の中で、「瞼の母」という「共同幻想」は(即ち国家なので)「母親帝国主義」(寺山)という言い方も出てきたが、1970年代らしいのかもしれない。「母」は美しいばかりのものではないことは、既に述べた。
近代的個人の自立の妨げになっているといっても、母ものは永遠のモラトリアムのようなものである。小此木啓吾『阿闍世コンプレックス』でも、『瞼の母』について詳細に分析されていた。

 

手塚治虫の代表的作品ベスト15

手塚治虫について、
代表的な作品を10~20程度を選んでみるのも一興かと思い(15作品を選んでみた)、作品を思い出してみると、昭和20年代の単行本では『化石島』と『罪と罰』が良いと思う。どちらも20年代後半(1950年代前半)の作品で、手塚人気は20年代前半からすごかったらしいが、今読んで面白いのはこの2つだろう。『化石島』は新書判ブームのときに復刻され、『罪と罰』は同じころCOMの付録として復刻された。単行本時代の作が新書判で復刻されたのは『化石島』だけだと思う。

1950年代後半の雑誌連載物としては、『ロック冒険記』と『アトム大使』で、どちらも手塚らしいスケールの大きいSF物で、異人類・異文明との交流やペシミズムが基底に流れる。『アトム大使』につづく『鉄腕アトム』では特に「海蛇島」「赤いネコ」などが印象に残る。

ここで手塚プロの「作品年表」をみてみた。
https://tezukaosamu.net/jp/manga/chronology.html

1950年代後半の手塚は、低調だったと思う。アトムはマンネリになり、「ケン1探偵長」や「僕の孫悟空」は、(70年頃読んだが)退屈だった。探偵物としてはつげ義春の『四つの犯罪』のほうがずっと面白い。ほかに少女物が多いのもこの時代である。
時代物、探偵物、少女物となれば、この時代が全盛期だった貸本漫画と同じ傾向ということになる。少年雑誌でいえば『赤胴鈴之助』『ビリーパック』の時代。低調の理由はやはり映画の影響によるものなのだろう。この時代の手塚を悩ませたのは、映画人気だったことになる。この時代の作品から選ぶとすれば『ライオンブック』の短編くらいだろう。60年安保世代は、10代後半で前述の作品に触れて、手塚に失望したことだろうと思う。

60年代前半は少年週刊誌が登場し、『0マン』『キャプテンKen』や『ビッグX』などのSF物で手塚は復活する。『0マン』は異文明物、『キャプテンKen』は西部劇スタイル、『ビッグX』はナチスもどきの秘密結社アクション物を取り入れ、映画の影響がありそうだが、SFとしてもまあまあだったと思う。
そして63年からはテレビアニメ『鉄腕アトム』が大成功。

60年代後半は、SF物の『ワンダースリー』のほか、『バンパイヤ』などSF以外の異文明物もある。67年にはCOMを創刊し、『火の鳥』の開始。成人青年向けのSF『人間ども集まれ』『地球を呑む』『空気の底』などを多作する。
また新書判ブームによって多くの旧作が復刻されるが、新書判の直前にはB5判のカッパコミックスのような時代もあった。「アトムの子世代」(シラケ世代)としては、中学生時代を中心とした年齢にあたり、前述の全ての作品はこの時代に苦労なく入手して読んだため、手塚に圧倒されることになる(ガロ系の作品にも徐々に触れることになるが)。

70年代は、歴史物なども増えてゆくが、リストアップするのに飽きてしまったので、おしまいにする。『サンダーマスク』が不思議な作品だったが、尻切れトンボで終っている。

『ワンダースリー』については、3人の死後の世界が過去の世界につながるような話について、あとで書いてみよう。

ワンダースリー

 

つげ義春大全 別巻1

つげ義春大全 別巻1 (随筆)夢日記 僕の漫画作法』(講談社

発行は2021年2月。帯裏に「つげ義春大全 堂々完結」と書かれる。
大全のうち初期作品のカラーのものを何冊か揃えていたが、そろそろ完結したのではと思って調べてみると、とっくに完結していたわけだ。

内容については、エッセイなどをまとめた本であり、
これまでにない詳細な「年譜」があり、『COMICばく』の毎回のあとがきなどもまとめて読める、そのほか単行本未収録のものも多いのではなかろうか。

『ばく』7号のから文には、
「今月の『ばく』の発売日が四十八歳の誕生日。」
と書かれる。ばく7の発行日は1985年12月、発売日は10月30日だったことがわかる。その日は戸籍上の誕生日にすぎないらしいが、この記事の日付は1日違いの10月31日になった。つげ氏は今年、85歳。


末永史作品集(2007)の帯コメントの文も収録され、注目していたので雑誌から切取って保存していたとのこと。雑誌とは『ヤングコミック』などだろう。私も切り取って百数十ページを一冊に閉じておいたものがあったのだが、どこへ行ったか…?。

エッセイの「上州湯宿温泉の旅」と「湯宿温泉のことなど」とを読み比べると、湯宿温泉を知るきっかけについての語り方の違いが面白い。前者はユーモアが前面に出ている。後者は若く熱心なファンへの直接的なメッセージでもあり作家としての風格を感じさせる。

 

別巻の一冊としては、他に『つげ義春対談集』がまとめられることを期待していたが、今回はないようである。「年譜」の中の「インタビュー・その他記事」という項目に、多くの対談記事のリストが掲載されている。ちくま文庫の『つげ義春1968』に収録の座談会「マンガブームとは無縁か」は、1970年6月のものだが、「年譜」のリストには見つからない。漏れているかもしれない(82年ユリイカの「テッテ的年譜」には載る)。

この『大全』の直前ごろに出た本に、岡野弘彦編『精選 折口信夫』という全6巻の選集がある。最終の1巻は「アルバム」と題され、1冊まるごと写真集である。著名な学者でも写真集があるのだから、人気漫画家の全集に『写真集』を入れてもおかしくはないと思う。

それにしても講談社のこの本は、重い。なぜなのか、かなり厚い紙を使っている。ゆうメールが(2018年に)厚さ3cm以下とされて以後は、こんな厚い本はないと思っていたのに。

ストリートビューで「つげ義春」を旅する

つげ義春を旅する』(高野慎三著、ちくま文庫)は、つげ作品の舞台となった地を訪ね歩いた本である。

『池袋百点会』という短編に登場する錦糸町の「ランボウ」という喫茶店は、実際は「ぶるぼん」という名で、1960年前後のころに作者が毎日通った店らしい。

そこでグーグルのストリートビューで探してみた。
錦糸町駅から北へ進み太平4丁目交差点を(蔵前橋通りを)渡ろうとして左方向を向いたら見えたという。交差点より左(西)、通りの南端のようだが、見つからなかった。

本の初版の1997年ごろは、あったらしく、その十数年前(80年代?)につげ氏が近くへ寄ったときに見つけて「まだあったのでびっくりした」とのことで、97年頃も存在したという感動的なリポートが書かれていた。しかし当時からさらに20数年が過ぎているので、どうだろうか。

ぶるぼん つげ義春

けっきょくグーグルの通常検索で、mixiの記事を見つける。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=422797&id=7888417
mixiは完全公開ではないので、一部だけ。写真を拝借した。
記事によると2006年06月21日の3日前には、既に閉店して看板が外されていたという。写真はその1年前に撮影されたという。
店の住所は「東京都墨田区太平3丁目9-5」と書かれているので、再びストリートビューを見ると、次の写真の工事中の現場あたりを指し示した。

2006年に始まった工事が今年2022年まで続いているわけではないと思うが……、ストリートビューは数年前の写真であることも多いようだ。
残念ながら、店は今はないようである。

 

同書には太平町を歩いた帰りに見かけた「太平まんじゅうを売る生菓子喫茶」の写真がある。
現在のストリートビューでは「すみだ江戸切子館」の看板が出ている建物だろうと思う。
道の角を「角切り」した5角形の土地に建つ木造建物で、屋根は方形のような形だが、土地と同じ形の5角形なのだろう。「太平まんぢゅう」で検索すると出るようだ。

 

次は『長八の宿』で知られる伊豆松崎の宿・山光荘。(グーグル)

三光荘 長八の宿

 

昔よく歩いた道が今はどうなっているか知りたいとき、グーグルのストリートビューは便利である。

実はわれわれの自宅の外観もグーグルによって撮影公開されてしまっているわけなので、撮影された側の迷惑にならない範囲で、グーグル画像を利用させてもらうことはできるだろう。

石子順造的世界

石子順造的世界

石子順造的世界』(美術出版社 2011)は、著作では知りえない氏の横顔などが見えて興味深い。『漫画主義』の同人3人(高野慎三山根貞男梶井純)による座談会では、石子氏の思想の"ルーツ"ないし思想形成過程などに話が及んでいる。
 だが、氏に強く影響を及ぼした人物というのは特になさそうだとのこと。独学ということなのだろう。
 学生時代から大変な読書家だったようで、氏の学生時代の話がある。

「東大の経済学部でマルクス経済学をやって、それは共感したんだと思う」(高野)。しかしそれは必ずしも政治的なものというより、「まさに理論としてのマルクス主義に傾倒したのかもしれない」「資本論における分析がすぐれてる、とかそういうことかなと思う」(同)

 1950年代では学生の必読書の一番といえばマルクスの『資本論』なのだろう。資本論は哲学的な内容をふくむ学問の最高峰だったともいえ、そこから、ものごとの分析方法、思考方法などを、氏は学んだということだろうか。政治思想ではなく純粋に学問の書として学問したということだろう。もともと資本論には政治運動のやりかたが書いてあるわけではないので、それは当然といえば当然。当然でないと見るほうが既に何かに染まっていることになる。

 1960年代後半から70年代半ばまでの約10年間、氏は怒濤のごとく執筆活動をおこなっていた。
 評論家として原稿を依頼されれば、どんなことについてでも書いたとのこと。「どら焼」について頼まれれば、分析的に書いたろうという。分析的とはつまり、心情的な好みや思い入れは排除してということである。日本の「母物」文化を分析した『子守唄はなぜ哀しいか』においても、その方法は徹底していた。
「たとえ好きになりそうなことにでも直情的に反応することに、極端に慎重だったんじゃないか」(高野)という。

 私の若いころの作文の話に脱線するが、石子氏の用語法などの影響が強いと感じた。ルービックキューブというゲームについて論じた作文があり、ある意味で石子氏の影響のある書き方といえるかもしれない。それはゲームや遊びの社会学的な考察はすべて捨象し、その解き方についてだけ、三段論法または弁証法的な論理の深化として、描写しようとした。ゲームは解くというよりも体系の構築でもあり、序破急ではないが3段階の物語構成のように組立てようともしたのは、私の創作願望もあったのだろう。

 さて戦後の貸本劇画の読者層について規定した、このジャンルでは有名な用語「非学生ハイティーン」(権藤晋)という言葉を、石子氏は「心的ないい方としての非学生」と言い替えないと語れなかったという指摘なのだが。

 この「心的な」云々という言い方は私の記憶にはほとんどないのだが……、
たぶん、非学生ハイティーンたちと、共通の作品を面白いと思ったら、そのことを彼らと直接語り合うことができるが、それは「心的」に共有できるものがあるからであり、それ以上のことは語り合いには必要ないということかもしれない。それなら私も同様に思う。
「非学生ハイティーン」には、実際は、地方出身の都市住まいの労働者という見落とせない属性がある。都市出身者は、彼らをいったん別世界の人と見てから、歴史的な存在を見ながら次に共感できるものに近づいてゆくという段階的な接し方になることもあるのではないか。心的なら、そこがストレートなのではなかろうか。
 分析好きの人間は、どんなものにも共感できる何かがあるはずだというところから思考が出発するので、ほかのことは気にならないことがあると思う。

「生活者」というのも、それに似たものがあると思う。生活者とは生活史の主体のことだと思うのだが、民俗学的な見方では、生活史とは、既存の「歴史」が政治史にすぎないものとすれば、政治以外の全てが生活史であり、生活史こそ本来の歴史であるように、意味が拡大してくるのだが、当時の石子氏にもそれは念頭にあったかもしれない。政治史の中の生活者ではなく、政治史は生活史の中に含まれる程度のものではないかというようなことなのだが、あとで再考してみよう。
 藤純子の顔がわからなかったというのは、石子氏はやくざ映画が好きでなかったのではないだろうか(好きでなくても依頼されれば書くのが石子氏)。私もあまり見たことがないが、江戸時代に賭場で女性が肌を見せてサイコロを振るわけがないと思う。高野氏が私に奨めた映画『関の弥太っぺ』は、大変良かったし、他の長谷川伸原作の映画の中でも間違いなく最も私の好みだった。青江美奈は私は嫌いではなかったしジャズは良かった。石子氏の『青江美奈論』は彼女のジャズを聞いてのものだろうか、確認してみたいがわからない。

『年譜』の昭和24年に、長期療養のときに、小説を含めてたいへんな「乱読」をしたと書かれる。貸本屋1軒ぶんの本を全て読了したと別のエッセイにもある。
 私も数年に一度、小説を集中して読んだものだが、内容はあまり記憶に残らず、学術書以外は自分のためになったかどうかもわからない。単なる娯楽だったのだろうか。石子氏はそんなことはないと思うが、何が違うのかは、よくわからない。
 一人の作家を続けて読むと、思考の類型や癖が見えてくることに安心感が出てくるのかもしれない。それはキッチュなもののことでもあり、大作家にもそれがあるといえないだろうか。キッチュなもの以外は忘れてしまうのである。子ども時代の手塚治虫と、その後のつげ義春は、繰返し何度も読んだので、よくおぼえている。手塚とつげなら、記憶だけで何かを書けるかもしれない。

 座談会の最後は「石子順造はどこへ行こうとしたのか」という見出しがあり、さまざまなものに関心を抱き続けてきた石子氏が、次にどんな方面に関心をもったろうかという話題。
 石子氏の怒濤のごとき10年間は、氏にとっては「中年」というべき年齢だった。しかし氏には若いころに「失われた十数年」のような時期があったらしく、それを差し引くと、中年時代は青年時代でもあったようで、内容も若々しかった。
「その後の石子順造」について想像できることは、あの独特の用語法や、わかりづらいような論理のこねくりまわしは、次第になりをひそめていって、わかりやすく読めるようになったのではと想像する。ビジュアルな分野のテーマが多いので、多くの若い読者を得たかもしれない。新開拓の分野としては、宝塚歌劇などもありえたかもしれない。

以上は、半分くらいは私自身のことを書いたような気がする。

石子順造を読む

 久しぶりに、石子順造氏の本を取り寄せて読んだ。
 『マンガ/キッチュ 石子順造サブカルチャー論集成小学館クリエイティブ 2011年発行
「単行本未収録」の小論などを集成した本である。

 氏の生前の「単行本」は、共著をふくめて15冊ほどだが、その全部を読了したもので、今も蔵書にある。全部ということは、一種の「ファン」ということになるのだろう。氏が亡くなった年もはっきり記憶にあり、1977年だった。

 さて、本をぱらぱらとめくって拾い読み。「存在論的アンチ・マンガ」とか「アクチュアリティ」とか、今はあまり使うことのなくなった言葉にふれるのは、懐かしい。
他にも時代を感じさせる用語が少しあるので、再版して大ヒットというわけにはいかないのかもしれない。

 320ページあたりでは、歌謡曲が論じられる。
……日本人は「道」を好み、神の道、人の道、芸の道など、さまざまな道がある。日本人は道ばかりで広場を持たなかったという論があるようだが、そうではなく、「道」はときとして広場にもなりえた例がある。現代は、新宿西口広場を通路だと主張するような混乱にみられるように、本来の「道」を失ってしまったのが、われわれの近代だということになる。といったところが要約だろうか。
 無自覚のうちにわれわれを拘束している「近代」なるものは、常に重要なテーマだった。氏の『近代における表現の呪縛』という本は、最も難解かもしれず、時間をかけて熟読した記憶がある。近代とは何かというのは、近世研究の歪みにもかかわることで、私の一生のテーマになったと思う。

 蔵書目録を検索したら『国文学』1975年1月号が出た。
 その雑誌を開いてみると、氏の「お賽銭と風景」という小論があり、読んでみた。
……都会のビルの広場に、現代の彫刻家による「えびす様」の像が建ち、いつしかそこにお賽銭が上げられるようになる。一方、古くは寺院の仏像だったらしい像が、博物館の所蔵物となり、ガラスケースに陳列されて、人々は入場料を払って見る。近代は、仏像を博物館の所有財産にしてしまうのだが、人々の支払う入場料には従来のお賽銭の意味も含まれるのではないかという見方もでき、一方では芸術家の作品の前にお賽銭が置かれるという現実もあり、この両者の接点にあるのが「キッチュなるもの」であり、それらを見る者の視覚にもキッチュ性があるのだという、いかにも石子氏らしい一文だった。
(蔵書目録は索引が十分構築できていれば、『美術手帖』など他の雑誌も多数出たと思うが)

 331ページあたり。
「赤瀬川の「模型千円札」は、事物と行為にかかわって、いやおうもなく芸術と国家がともに制度であることを、その陥落部において対象化したと思える」
という文が目に入る。
 この「制度」という言葉から、わが高校三年のときの一件を思い出した。国語の教科書に丸山真男の「『であること』と『すること』」の一部が載り、教諭の作った試験問題は、次の言葉は「であること」と「すること」のどちらか、という設問だった。これはつまり、たとえば「有権者」は「であること」、「投票」は「すること」といった具合である。提示された言葉の中に「制度」というのがあった。石子氏の「芸術と国家がともに制度である」という用法が身についているので、それは拘束力その他の力を持つものであるので「すること」だと回答したが、「×」をもらった。後で答え合わせの時間に、「意見がある者は言え」というので、そのことを発言したら、「制度は運用によってどのようにでもなるので『であること』だ」とのこと、制度とは紙に書いた規則と同様のものという解釈だった。しっくり来ないものがあったが、ともあれ、丸山の本は、その後一度も読むことはなかった。

 さて、ファンであるということは、書かれた内容についてだけでなく、個人的な体質などに同調するものがあったに違いないと思うのだが、それが何かはよくわからない。旧家の跡取りだったことは共通するのかもしれない。
 石子氏はどうも会話のおしゃべりな人のように見えるが、私はそうではない。しかし、つげ義春氏などは、親しい相手にだけ少々おしゃべりになるらしい。親しい相手が多いか少ないかの問題に過ぎないかもしれれず、私は圧倒的に少ないのかもしれない。私の父のほうがおしゃべりの場面が多かったと思うが、昔の大家族で育ったせいだろう。大家族とは、当主の末弟と当主の長子の年齢差が少なく、あらゆる世代の構成員がいるものである。また所謂、片肺であることも氏と父と共通していた。
 私と好対照な面のほうが気になる。石子氏は高校時代は運動選手だったらしい。そうした基礎体力は、積極的な研究や執筆には不可欠だったのではないかと、老後の最近は思うようになった。石子氏の病気入院中に大量読書した話があるが、私は発熱や胸やけのときは読書意欲もなくなるので、体質が違うのだろうとしかいいようがない。

 

 「お賽銭と風景」は、没後10年頃の著作集の一にも二にもないので、単行本未収録かもしれない。著作集三は買いそびれたが、古書店ではかなり高値になっている。

 以下蔵書リストより。

石子順造