しらふ倶楽部

昭和の漫画(劇画)を遠望する

石子順造的世界

石子順造的世界

石子順造的世界』(美術出版社 2011)は、著作では知りえない氏の横顔などが見えて興味深い。『漫画主義』の同人3人(高野慎三山根貞男梶井純)による座談会では、石子氏の思想の"ルーツ"ないし思想形成過程などに話が及んでいる。
 だが、氏に強く影響を及ぼした人物というのは特になさそうだとのこと。独学ということなのだろう。
 学生時代から大変な読書家だったようで、氏の学生時代の話がある。

「東大の経済学部でマルクス経済学をやって、それは共感したんだと思う」(高野)。しかしそれは必ずしも政治的なものというより、「まさに理論としてのマルクス主義に傾倒したのかもしれない」「資本論における分析がすぐれてる、とかそういうことかなと思う」(同)

 1950年代では学生の必読書の一番といえばマルクスの『資本論』なのだろう。資本論は哲学的な内容をふくむ学問の最高峰だったともいえ、そこから、ものごとの分析方法、思考方法などを、氏は学んだということだろうか。政治思想ではなく純粋に学問の書として学問したということだろう。もともと資本論には政治運動のやりかたが書いてあるわけではないので、それは当然といえば当然。当然でないと見るほうが既に何かに染まっていることになる。

 1960年代後半から70年代半ばまでの約10年間、氏は怒濤のごとく執筆活動をおこなっていた。
 評論家として原稿を依頼されれば、どんなことについてでも書いたとのこと。「どら焼」について頼まれれば、分析的に書いたろうという。分析的とはつまり、心情的な好みや思い入れは排除してということである。日本の「母物」文化を分析した『子守唄はなぜ哀しいか』においても、その方法は徹底していた。
「たとえ好きになりそうなことにでも直情的に反応することに、極端に慎重だったんじゃないか」(高野)という。

 私の若いころの作文の話に脱線するが、石子氏の用語法などの影響が強いと感じた。ルービックキューブというゲームについて論じた作文があり、ある意味で石子氏の影響のある書き方といえるかもしれない。それはゲームや遊びの社会学的な考察はすべて捨象し、その解き方についてだけ、三段論法または弁証法的な論理の深化として、描写しようとした。ゲームは解くというよりも体系の構築でもあり、序破急ではないが3段階の物語構成のように組立てようともしたのは、私の創作願望もあったのだろう。

 さて戦後の貸本劇画の読者層について規定した、このジャンルでは有名な用語「非学生ハイティーン」(権藤晋)という言葉を、石子氏は「心的ないい方としての非学生」と言い替えないと語れなかったという指摘なのだが。

 この「心的な」云々という言い方は私の記憶にはほとんどないのだが……、
たぶん、非学生ハイティーンたちと、共通の作品を面白いと思ったら、そのことを彼らと直接語り合うことができるが、それは「心的」に共有できるものがあるからであり、それ以上のことは語り合いには必要ないということかもしれない。それなら私も同様に思う。
「非学生ハイティーン」には、実際は、地方出身の都市住まいの労働者という見落とせない属性がある。都市出身者は、彼らをいったん別世界の人と見てから、歴史的な存在を見ながら次に共感できるものに近づいてゆくという段階的な接し方になることもあるのではないか。心的なら、そこがストレートなのではなかろうか。
 分析好きの人間は、どんなものにも共感できる何かがあるはずだというところから思考が出発するので、ほかのことは気にならないことがあると思う。

「生活者」というのも、それに似たものがあると思う。生活者とは生活史の主体のことだと思うのだが、民俗学的な見方では、生活史とは、既存の「歴史」が政治史にすぎないものとすれば、政治以外の全てが生活史であり、生活史こそ本来の歴史であるように、意味が拡大してくるのだが、当時の石子氏にもそれは念頭にあったかもしれない。政治史の中の生活者ではなく、政治史は生活史の中に含まれる程度のものではないかというようなことなのだが、あとで再考してみよう。
 藤純子の顔がわからなかったというのは、石子氏はやくざ映画が好きでなかったのではないだろうか(好きでなくても依頼されれば書くのが石子氏)。私もあまり見たことがないが、江戸時代に賭場で女性が肌を見せてサイコロを振るわけがないと思う。高野氏が私に奨めた映画『関の弥太っぺ』は、大変良かったし、他の長谷川伸原作の映画の中でも間違いなく最も私の好みだった。青江美奈は私は嫌いではなかったしジャズは良かった。石子氏の『青江美奈論』は彼女のジャズを聞いてのものだろうか、確認してみたいがわからない。

『年譜』の昭和24年に、長期療養のときに、小説を含めてたいへんな「乱読」をしたと書かれる。貸本屋1軒ぶんの本を全て読了したと別のエッセイにもある。
 私も数年に一度、小説を集中して読んだものだが、内容はあまり記憶に残らず、学術書以外は自分のためになったかどうかもわからない。単なる娯楽だったのだろうか。石子氏はそんなことはないと思うが、何が違うのかは、よくわからない。
 一人の作家を続けて読むと、思考の類型や癖が見えてくることに安心感が出てくるのかもしれない。それはキッチュなもののことでもあり、大作家にもそれがあるといえないだろうか。キッチュなもの以外は忘れてしまうのである。子ども時代の手塚治虫と、その後のつげ義春は、繰返し何度も読んだので、よくおぼえている。手塚とつげなら、記憶だけで何かを書けるかもしれない。

 座談会の最後は「石子順造はどこへ行こうとしたのか」という見出しがあり、さまざまなものに関心を抱き続けてきた石子氏が、次にどんな方面に関心をもったろうかという話題。
 石子氏の怒濤のごとき10年間は、氏にとっては「中年」というべき年齢だった。しかし氏には若いころに「失われた十数年」のような時期があったらしく、それを差し引くと、中年時代は青年時代でもあったようで、内容も若々しかった。
「その後の石子順造」について想像できることは、あの独特の用語法や、わかりづらいような論理のこねくりまわしは、次第になりをひそめていって、わかりやすく読めるようになったのではと想像する。ビジュアルな分野のテーマが多いので、多くの若い読者を得たかもしれない。新開拓の分野としては、宝塚歌劇などもありえたかもしれない。

以上は、半分くらいは私自身のことを書いたような気がする。