●1961年~62年
手塚治虫の「ナンバー7」
子どものころに見た漫画の最も古い記憶は、雑誌『日の丸』に連載されていた手塚治虫の「ナンバー7」のある1ページである。小学2年生のときだった。
『日の丸』は集英社の低学年向けの少年誌であり、高学年(小学上級~中学)向けが『少年ブック』だった。
「ナンバー7」のその場面は、病室で少女が隠そうとしている脚が、無気味だった。それは彼女が宇宙人であることの証拠なのである。
「ナンバー7」とは、地球防衛隊の7番めの隊員という意味で、宇宙人の侵略から防衛する任務にあり、主人公の七郎のことである。七郎の友達のキミコには、宇宙人のスパイではないかという疑いがあった。実際に宇宙人だったのだが、彼女の脚は、異様であり、衝撃的な絵で描かれていた。見たときの恐怖感が、強い記憶に残ったのだと思う。女は理解しがたいものという観念を植え付けてくれたかもしれない。
画像は、1980年の講談社版手塚治虫漫画全集からのもの。
全集では4冊から成り、この場面が掲載されたのは、4冊の配分から、昭和36年の7月号の別冊付録だと推定できる。私は小学校2年生だった。
推定は、次のように行なった。
『ナンバー7』の講談社版の4冊は、1と3が約180ページ)、2と4が約200ページである。雑誌での連載は、1961年1月号から63年2月号(休刊号)までの全26回。半分の13回分が1、2巻収録分であろう。本のページ数から、1~6回で1巻、7~13回までの7回分で2巻と推定できる。
画像の部分は講談社版第2巻の25ページなので、連載第7回目の終盤ということになる。前後のコマ割を見ると、B6判の別冊付録から再構成されたコマ割である。
駄菓子屋や古本屋で
私が見た『日の丸』は、古本の可能性もなくはない。60年代前半は、古本屋で付録付きの少年雑誌がときどき売られていた。それらはたぶん読み古しのものではなく、書店で売れ残ったものが返品され、特別のルートで地方の古本屋へ流れたものと思う。雑誌は毎月出るものなので、せいぜい1~2か月の月遅れで古本屋に並ぶのだろう。叔母の7月のボーナスか何かで、月遅れのものを買ってくれたのかもしれない。毎月買ってもらえたわけではない。
ところで、古い少年雑誌の付録は、駄菓子屋でも、一冊づつ新聞紙を糊付けした袋に入れられて、1つ5円か10円で売っていた。袋は密封されて中身が何かはわからないので、手さぐりで、付録本か組立付録かの見当をつけることはできた。「さぐり」と言っていた。付録本では手塚にはめったに当たらないので、私は組立て付録のほうを選ぶことが多かった。
テレビ、そのほか
そのほか、絵本か雑誌の絵物語で、河童の絵を見たぼんやりとした記憶がある。1年生のときかもしれない。
そのころ(1961年)は、我が家にテレビがやってきて、ソ連の宇宙飛行士のガガーリン少佐が地球を周回して「地球は青かった」とコメントしたニュースが流れ、子どもたちも胸躍らせたものだった。アニメのフィリップを見た記憶もある。放送年は不明だがNHKみんなのうたで。「おお牧場はみどり」、シャンソンの「街の靴屋さん」、カントリー民謡の「赤い河の谷間」などを聞いた。
学校の図画工作
2年の担任のH先生は、国語の授業の中で、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や「杜子春」の物語を、本を読むのではなく講談のように語ってくれた。
理科の授業で、小さな藁半紙を配り、三日月が空にどのように見えるか書くように言われた。三日月は西の空に低く見えるものなのだが、近くの席の優秀と思われる女の子が、南の空高く描いていたのが脇から見えて、驚いた。全体の正解率もかなり低かった。ちゃんと見てる人は少ないのだと思った。
図画工作のときにサーカスの象の絵を描いたら、校内で入選となり、さらに先生が広域のコンクールに出品したらしく、そちらの賞ももらった。さらにその絵は、翌年に2年生の「なつやすみのとも」の表紙を飾ることになった。そのとき私は3年生なので、近所の2年生の子が見せてくれた。
私のその絵は、割箸を竹ペンのように作って描いたもので、子供らしく、伸びやかに描かれたものだと思う。上級生になると、だんだんと絵はリアリズムの方向へ行って、挿絵のような図柄になって行った。
「なつやすみのとも 2年生」(埼玉県版 昭和37年)であるが、今は入手困難のようである。