しらふ倶楽部

昭和の漫画(劇画)を遠望する

モダニズムと手塚治虫

 手塚治虫の初期の習作のいくつかは、文庫全集の1冊で読むことができるようになった。それらを読むと、可愛らしい少年少女は登場しないことに気づく。大人たちばかりが出てくるストーリーである。女性は、羽根が生えて空を飛んだりするが、洋装の大人である。
男性は、美形ではなく、中にはグロテスクな顔立ちの人物が目立つ。
 それは一つの違和感であったのだが、そのとき思ったのは、日本の昭和モダニズムの「エログロナンセンス」という言葉だった。手塚治虫の基本にあるものは、昭和モダニズムではないかと思った。

 晩年の作、という言い方は一般にはされないが、グロテスクを感じることがあり、好みではなくなったように思ったのだが、手塚治虫の基本の一部ではないかと思うようになった。以後の手塚作品では、美少年を主人公とする作は、めっきり少なくなるのである。
 『ブラックジャック』で違和感とともに記憶に残るのは、人間の少女の肉体と大きな鳥の羽根を外科手術でつなげて空を飛ぶ話である。『ブラックジャック』は金銭の話題も多く基本はリアルの話だと思っていたが、非リアルの、エログロナンセンスなのだと思うようになった。
 デビュー作『新宝島』の共作者の酒井七馬は、手塚は大人漫画の世界に行くだろうと思ったという(『謎のマンガ家酒井七馬伝』)。おそらく手塚の習作のいくつかは目にしていたので、児童漫画の第一人者となったことは意外だったのだろうと思われる。

 「エログロ」のうちのエロチシズムについては、手塚るみ子編の『手塚治虫エロス1000ページ』などが編纂されるくらいである。ファンの誰もが感じていたことである。
手塚るみ子氏によると、手塚は昆虫の生態などにエロチシズムを見るような人だったらしい。
 なるほど、手塚の少年時代の趣味の昆虫採集や諸研究も、科学的な興味とともに、「エログロ」志向もあったのかもしれない。科学的な関心というのも、昭和モダニズムの特徴のひとつである。

 『別冊太陽 乱歩の時代 昭和エロ・グロ・ナンセンス』は、江戸川乱歩の時代のモダニズムについての写真図版が多い。荒俣宏が「機械への嗜好性」という一文を寄せ、「機械趣味のエログロ化」などという表現もある。要するにロボットのエロチシズムのことであろう、まさに手塚漫画に通じるものだと思う。
 荒俣氏のこの一文には、挿絵として煙突が乱立する工場のイラストが載せてある。これを見ると、つげ義春の『おばけ煙突』を連想するのだが、つげ氏は、探偵小説では横溝正史のようなおどろおどろしいものは好まず、江戸川乱歩のように論理的できっちりした筋立のものをよく読んだといい、手塚治虫の魅了はバタ臭いところだったという(『つげ義春漫画術』)。モダニズムの影響はつげ義春まで続いていることがわかる。というより、昭和の漫画はモダニズムとともに普及したといえるのかもしれない。


 同じ別冊太陽に、川崎賢子氏の「美少年・美少女と異装」という一文がある。
川崎氏の本は新書判で宝塚歌劇についてのものを読んだことがあるが、宝塚歌劇エログロナンセンスの時代に男子学生たちのファンが増えて広まったということだった。宝塚歌劇手塚治虫にも大きな影響を与えている。
 別冊太陽のこの一文では、パリのレビューそのほか、「グロテスクと呼ばれる意匠の断片」などが詳細に論じられるが、「美少年」については、あっさりした書き方である。しかし、なぜか本文には名前の出てこない高畠華宵の絵が2枚添えられている。
埴谷雄高によると、高畠華宵蕗谷虹児は少女たちに人気の画家だったと、竹中英太郎についての一文で述べている(『別冊太陽 探偵・怪奇のモダニズム』収録「視覚文化の青春」)。では昭和モダニズムを代表する美少年画家は誰なのか、よくわからない。私の想像では、凛々しい若武者などの少年像が多い画家だろう。だがそれは手塚治虫の体質には合わなかったのではないか。
 モダニズムと総称される傾向のなかには、未来派の美術などもふくまれるそうだが、本場イタリアの未来派では、美少年やゲイの礼賛とともに、ファシズムの傾向に吸収されていったようなところがあるらしい。
 映画などで美男美女が主役であるのは普通のことだろう。しかし昭和初期の美少年像というのは、何か違うものがあるのではないか。それは手塚治虫の拒否するところだった可能性があり、だから描かなかったと思われるのだが、詳細については今後の課題となろう。