しらふ倶楽部

昭和の漫画(劇画)を遠望する

手塚治虫の低調期と「のっていた時期」

 ●1954~59年の低調期
手塚漫画で本当に退屈でしかたなく、我慢してなんとか読み通したものが、いくつか記憶にある。「我慢して」というのは、鈴木出版発行の貴重な本を1970年頃に運良く手に入れることができたので、とにかく目を通そうと思ったからである。
 作品タイトルでいううと、『スリル博士』。これは1959年の週刊少年サンデー創刊号からの連載物。
 『ハリケーンZ』はその数年前の作だが、これは手塚自身が再刊したくない作品としていた。
 『ケン1探偵長』などは少しはましだったが、変装シーン以外はやはり退屈だった。

 この時代、1950年代中盤は、手塚治虫の低調期だったといえる。
 低調の原因を考えてみると、主として2つのことが思い浮ぶ。

 1つは、福井英一の『イガグリくん』ブームと流行の背後にあるもの。主人公の下ぶくれの顔で、ずんぐりした体形の少年は、かっこいいとは思えず、少年漫画が退化してしまったような印象さえある。当時の手塚作品にも、そうした流行を真似して、下ぶくれの顔の少年を描いたものがある。迷っていたのだろう。

 思うに、昭和20年代の地方の子どもたちには、少年雑誌を毎月読めるほどの経済的ゆとりはなかったと思われる。都市部や下町なども実際は同様なのだが、朝鮮特需を経てから、貸本屋が急増し、貸本屋では雑誌も読めた。
 高度経済成長の始まりとされる昭和30年頃には、地方にも少年雑誌は普及して行った。それ以前は作り手が主体で、手塚のようなバタ臭い絵も支持されたが、急激に増えた新しい読者層には、『イガグリくん』や『赤胴鈴之助』のような絵が人気だったのかもしれない。ただし手塚のような科学や海外に目を広げた文明批評をともなう作品も、時代の需要はあり、一定の支持はあったと思う。
 高度成長初期の時代は、歌謡曲では三橋三智也などの時代である。その歌詞は田舎の生活を外から感傷的に見た風情のもので、それが良い悪いではなく、背景は理解できなくはない。つげ忠男は歌謡曲で良かったのは昭和28年(1953)までだと言ったが、私は、55年前後の頃から変ったと見ていたのだが、リアルタイムで聴いていたわけではないので、たぶん同様の見方をしていたのだろうと思う。

2つめは、悪書追放運動
 教育関係者?が主催の吊し上げ集会に何度も呼ばれた手塚は、逃げも隠れもせず、堂々と渡り合ったという(うしおそうじ手塚治虫とボク』)。鳩山一郎首相は悪書追放を宣言し、大宅壮一まで手塚を「阪僑」だと皮肉った。手塚はよく耐え忍んだと思うが、やはり作品の自由な発想などに影響が出ないはずがない。不十分な作品であっても、書き飛ばしたのは、将来のアニメ制作の資金のためもあったかもしれない。
 当時大阪で胎動を始めた劇画の影響で、手塚が悩んだとする論もあるようだが、それは劇画に対する後世の誤解が原因のように思う。悪書追放運動のとき当然貸本劇画も対象になったが、いちばん矢面に立ってくれたのは手塚治虫だった。劇画の人たちもまた、手塚漫画の延長上に劇画が誕生したという認識であり、共感と讚辞を送っていたはずだ。
 なぜこの時期に悪書追放運動がおこったかといえば、やはり少年雑誌の発行部数が急増し、初めて大人たちの目にとまって、一部の者が騒ぎ立てたのが始まりなのだろうと思う。
 56~57年のライオンブックスは、この時期のものでは傑作といわれるが、低迷を脱出しようとして、実験的な短編という形になったのだろうか。良質のものがゼロだった時期というわけでもない。そして手塚の本格的な復活といえるものは、59年秋からの『0マン』ということになろう。

  ●「のっていた時期」
 1963年に、テレビアニメの『鉄腕アトム』が始まる。その後、虫プロは経営難となり、73年に倒産。その間の時代を、手塚の低迷期とする論評があるが、アニメと漫画を混同したマスコミ発の見方にすぎないと思う。ここでもまた、一般雑誌に進出した劇画勢の影響を関連づける評論もあるようだが、それは違うというよりも、低迷期ではなかったというのが実際である。
 手塚自身のエッセイなどでも、この時期を経営的に大変だったと書くことがあるが、全集の「あとがき」のいくつかを読むと、大変だった時期の作品だが、自信作だ、という書き方をするものが少なくない。「火の鳥」をはじめ、「W3」、「人間ども集まれ」などのSFも好調。青年誌では「地球を呑む」「空気の底」など独自のエロチシズムでファン層を広げ、低迷した時代とはとても思えない。低迷期とする論評には、どの作品が駄作だったかの具体例がないことに気づくべきだろう。
 66~67年の『フライング・ベン』のあとがきでは、「のっていた時期なのでかいていてたのしかったです」と書いている。この作が自信作とは書いてないが、『COM』創刊のころであり、やはり、のりにのっていた時期なのである。

 講談社現代新書桜井哲夫著『手塚治虫』は、手塚の評伝という本なのだろうが、1960年代の虫プロ時代については、アニメ経営者としての話題が中心なので、「のっていた時期」だったことを読者は見落とす可能性がある。桜井氏自身も、この時期の手塚作品は『空気の底』をはじめ「かなり暗いものが多い」などと書いている。
 しかし手塚本人は、アニメの成功によって自信がみなぎり、漫画作家としても「のっていた時期」だと言っている。私もそう思う。

 なぜ「のっていた時期」を見逃してしまうのか、それは世代的なものもあるのかもしれない。
 私自身は、手塚が低調期を脱している61年、ソ連ガガーリン少佐が「地球は青かった」と言った年に、宇宙物の『ナンバー7』で手塚を知り、そしてカッパコミックスや新書判ブームで旧作も読み、中学2年で『COM』を読み始めて、高校3年で『COM』休刊(卒業)、10歳代ないし小中高時代が手塚の「のっていた時期」と重なっている。手塚ファンとしては最も幸運な世代なのではないかと思う。
 桜井氏のような団塊世代では、手塚に最初に触れたとき、手塚は低調期だった。中学後半になってアニメのアトムに夢中になれるだろうか。『COM』創刊のとき大学生では、よっぽどのマニアの大学生でなければ毎月読まないだろう。虫プロの倒産は、社会人としてシビアに見ていたであろう。

  ●低調期の話に戻る
 ここまで書いたところで、手塚治虫文庫全集『冒険放送局』が届いた。
巻末に手塚プロ森晴路氏の「解説」があり、集英社の雑誌『おもしろブック』51年12月号から59年6月号までのことに触れている。その期間中の同誌には、手塚は『ピピちゃん』『銀河少年』『ワンダーくん』『風之進がんばる』『ライオンブックス』『地球大戦』『ジャングルタロ』というふうに「ほぼ連続的に連載している。」「しかし残念ながらいずれの作品も未完に終わっている。激しい人気競争があり、その結果連載を途中で打ち切られたものと思われる」(森氏)とのことである。
 手塚ほどの漫画家の連載が、不人気を理由に連載を打切られたとは、しかも7作連続連載打切りということに驚いた。普通は1~2回打ち切られれば以後は不採用になると思うので、7回連続というのは、新記録になるかもしれない。

 不人気の理由は何であろうか。
 『ライオンブックス』については、内容がマニアック過ぎたためといわれる。
その他については、同誌でどんな漫画が人気だったかの資料もなく、わからない。
 この本には書名になった『冒険放送局』などは小学館学年誌だが、併録の『地球大戦』などが『おもしろブック』である。後者では、コマ割が細かく、手塚らしくないところがあり、手塚らしさを抑えているのかもしれない。理由は、編集者の意向で、悪書として名指しされないためだろうか。人気が上がらないため、本人が別のものを描きたくなって打ち切りにしてしまうのかもしれないが、新作も編集者の意見を取り入れすぎてしまうとか。当時の雑誌は編集者の意向が非常に強かったとは、つげ義春氏も語っているが、この時代が特にそうだったような印象もあるのだが、私の想像の域を出ないかもしれない。
学年誌でコマ割が小さくないのは、まだA5判だったのかもしれない)

手塚作品は、4期に分けられると思う。
46~53年 初期。大阪の赤本時代と雑誌進出時代。
54~59年 低調期。
59~71年 「のっていた時期」
72~88年 晩年(グロテスクの傾向がみられる)

モダニズムとグロテスクについて、この続きを書いているが、まだまとまらない。