しらふ倶楽部

昭和の漫画(劇画)を遠望する

紙芝居と広場

紙芝居と広場

貸本屋とマンガの棚』(高野慎三著、ちくま文庫)だったと思うが、
「紙芝居の衰退の原因をテレビの影響とする説には大きな無理がある」(38p)
という一文が目に入り、その前後などを読んでみた。

紙芝居とは、自転車の荷台に紙芝居の道具と駄菓子などを積んで、おじさんがやってくると、子どもたちが集まった、あの紙芝居のことである。
紙芝居の衰退は、1953年ごろから急速に始まったらしい。テレビも1953年から開始された。
だが、当時のテレビの普及率は微々たるものであって、テレビが紙芝居を衰えさせたという説には確かに無理がある。原因は、映画と貸本マンガのブームにあるだろうという。なるほどと、ひざを打ったものだった。
幾十年かを経て、マスコミなどが繰返しテレビ原因説を言ううちに、人々の記憶まで"刷り込み"によって変化することもあるだろうという。

私の記憶では、地方では62年ごろまで紙芝居はポツポツ来ていたが、都市部ではもっと早く消えていたようだ。当時62年ごろに見た紙芝居は、定期的に頻繁に現れる物ではなく、気まぐれに突然現れたように思う。絵には印刷のものもあり、内容はそれほど子供たちが夢中になるほどのものでもなく、親に小使いをもらって駄菓子目当ての子が10人あまり集まる程度だった。
貸本屋やら映画館やらとは縁遠い農村部において、まだかろうじて紙芝居は残存していたということだと思う。63年にはテレビアニメの「鉄腕アトム」が始まり、紙芝居は村部でも最終的に消えていったということなのだろうと思う。

我が家の門の脇には広場があったのだが、紙芝居は広場ではなく、門の前に来た。門は東向きで、道路からは10メートルほど奥まったところに門があった。紙芝居は道路寄りに自転車を駐め、子どもたちは門を背にして集まった。
門付け芸人という言葉があるが、門付けとは、門の側に付くことからそう呼ばれたろうと池田弥三郎氏が著書でいう。門付け芸は、門の中の屋敷内には入らず、公衆道路でもないような、その境界のエリアに来たことになる。脇にあった広場は、江戸時代には高札場でもあり、それが村の名主の屋敷の造りなのだろう。そこには神明様も祀られ、芸人たちは遠慮したのかもしれない。

都市部でも屋敷の門の前の広場は、広さはさまざまでも、存在したであろう。志ん朝の落語『井戸の茶碗』では、江戸の細川邸宅の門の側には清正公様(加藤清正を祀る)が祀られ、その前で行商人たちが休息する場面があり、そこは広場でもあった。
近代になり、都市計画や道路拡張、震災や戦災からの復興の過程で、すぐにそれとわかる門のそばの広場というのは、次第に消えていったと想像できる。
1960年代には、新宿西口広場というのが存在した。60年代末には、そこは「広場ではない。通路だ」ということになったらしい。都市計画が進んでいた時代だったのだろうが、「道路の側の広場」という配置は、昔のまま踏襲されていたのではないかと思う。

広場の消滅が、紙芝居の衰退の原因だというわけでもない。独立した広場というのが消えていっても、道はいつでも広場に代りうるし、紙芝居は場所によっては路地裏に来ていた。紙芝居は広場と道路の境界に現れるものだったし、広場と決まったわけではない。辻占や辻商いなど、道端で商売をする者は昔から多かった。

そうした曖昧な広場は、屋敷の門の前のほかに、集落の外れの境界付近の、辻と呼ばれるあたりにも多かったろう。そこは、農村では疫病退散の祠があったりしたが、同時に別の集落の者も集まれる場であった。都市部でも同様だろうが、疫病神の退散よりも、他との交流などが重視されるものだったのではないか。そこは塞の神の支配する場所であり、流浪の客神も集まる場所だった。

屋敷の門の前の、門付けの場所にも、芸人たちによってある種の神が臨時に招き寄せられた。
「辻」とは「①道路が十字形に交叉している所。四辻」と書かれ、確かに漢字の「辻」には「十」という要素が含まれ、よくできた国字である。しかし日本のツジは、実際は三叉路や丁字路が主体ではなかったかと思う。日光街道奥州街道が宇都宮で別れるように、もっと小規模の村の古い絵図面の地図を見ると、二股に別れる道ばかりが多く、人家と人家の間には、門までの短い馬入れ道はあるが、家の前の道はどこまで行っても脇に入る道がないようなところも多い。
二股の地には、道祖神や地蔵がよくある。大きな木の枝が二股になっている部分には、木俣の神が祀られるように、そこは特別の呪力の発生する場所であり、異界との交通が可能の場所であったという解釈もある。
巷(ちまた)というのは道俣のことであるから、元は辻と同じ場所のことだった。その場所は、都市部では複数の町内から人が集まりやすい場所となって、「にぎやかな場所」とか「世間」という意味になったのであろう。

三叉路には、それに接して、三角形の区画の土地が3つできる。そこに四角い建物を建てると、土地が余ることになる。そのような土地が、小さな広場になることもあろう。

辻商いや辻占などは、交差点でもないような普通の道端でも営業したであろうが、どのような場所を選んだのかも興味深い。もっとも時代劇などを見て、ああいう場所だったのかと信じることはできないが、何か基準があったことと思う。門付け芸などの祝祭性があって稀に行なわれるものなら、お屋敷の門の前が重要だろうが、日常的な露店のようなものは、お屋敷の側は避けたようにも思う。

紙芝居については、作品としてストーリーなどを分析し、作品論や作家論として語るのも良いが、それが行なわれた場所についても重要であろうし、同じ場所で行なわれてきた昔の門付芸などに思いを延べるのも一興であろう。